地球ウォーカー

1.秘境シーサンパンナを行く 5.ブハラからサマルカンドへ
2.台湾山地紀行 6.ベルギーの小さな町デュルビイ
3.平遥古城の碑文 7.郷土の旅・俵屋のあめ
4.中国で日本語を教えて 8.言葉の旅




西双版納から絹道へ ―ジャーナリストの見た中国、南と北の素顔―
(ジャルパック・ブックス、1984年刊)
「秘境シーサンパンナを行く」は本書の 《雲南民族学院留学記》 中の1章です。
 

1.秘境シーサンパンナを行く

* 50歳から習った中国語 * 糸を紡ぐ少女 * 木の葉に書かれた記録
* 中国の南部国境 * 自転車に乗った茶摘娘  * 村は小宇宙
* 水牛さまのお通り * 雲南茶を楽しむ * 街頭の手術師
* 焼畑を見る * 井戸は飾られていた * 終わり良ければすべて良し
* 黎明の町・景洪 * タイ族少年僧院


 

* 50歳から習った中国語


 私は1983年夏、雲南省を中心に37日間中国を訪問し、その大部分を昆明市の雲南民族学院留学生宿舎で生活しました。目的は中国語の学習です。同時にその期間を中国人の中で暮らすことで、中国について新しい発見があるのではないかという期待がありました。雲南民族学院が日本人を受け入れたのは初めてのことだったので、このときの21歳から63歳までの19人は同学院の第1回日本人留学生ということになります。

 私が中国語を習い始めたのは50歳になってからでした。実はそれ以前、東京・有楽町の外人記者クラブ(社団法人・日本外国特派員協会)で、欧米人記者と雑誌企画の打合せをしたことがあります。数年にわたる毎週1回の打合せで、会話のやりとりは、いつも日本語と英語のチャンポンでした。なんで10年以上も英語を学んでしゃべれないんだろうと屈辱をかみしめていると、3ケ国語の語学教師をしたことのある記者が「それは日本の学校教育がしゃべることを目的に教えていないからだ」と指摘しました。そのとき、ひとつ50歳の記念に、しゃべることを目的として新しい外国語、中国語を勉強してみようと思い立ったのです。

 なぜ中国語を選んだか。ひとつには欧米語のあの面倒な現在完了や過去分詞がなかったことです。中国語には過去・現在・未来の語形変化がありません。また漢字は現代で通用する唯一の古代表意文字ですが、近隣の中国文化圏諸国に伝来してからはその国の国語の表記に使われました。日本では「漢字の訓読み」と「漢字をもとにした表音文字」とを発明し、国語の表記に用いました。

 ベトナムでは今世紀初頭まで公文書に漢文が使われていましたが、その後アルファベット表記が学校教育にとり入れられ、華僑系ベトナム人を除いて漢字識字率は著しく低下しました。しかし現代ベトナム語中の2音節語の多くは、外来漢語だといわれています。

 韓国、北朝鮮で使用されているハングル文字は15世紀に発明され、しばらくは浸透しなかったものの、現代に至って公文書や小説、手紙などは、全文ハングル文字が使用されるようになりました。現状では一部に残る漢字まじりハングル文の中からも、漢字は急速に少なくなりつつあるといいます。

 発音が難しい中国字音は日本語にとり入れられるとき極端に変形し単純化されました。中国語では発音が違う複数の単語が日本語では一緒くたになってしまい、これが日本語に同音異義語が多い原因だといわれています。漢字の発音は日本でも中国でも長年にわたって少しずつ変化しましたが、根は一つなのです。方言学、音声学に造詣が深い東京外国語大学名誉教授、鐘ヶ江信光先生は、その著『中国語のすすめ』の一節で、次のように述べていらっしゃいます。「日本の漢字音は中国の方言の一つといえるわけで、私たちにとっては、中国語の漢字音はほんとうに身近な血を分け合った間柄なのです」。

 これも私が現代中国語の学習に興味を持った理由の一つでした。

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* 中国の南部国境


 雲南省の中で中国の南部国境を形づくり、ラオス、ビルマと接するところが、西双版納(シーサンパンナ)タイ族自治州です。そこまで行くと漢族19万に対して少数民族46万と人口は少数民族の方が多く、ここが中国なのかと目を疑わせる景観が展開します。熱帯雨林のはざまの川沿いの盆地にはタイ族の肥沃な水田地帯がはるばると続き、竹で編んだ高床式家屋の集落が点在します。州都・景洪(ジンホン)からビルマ、ラオスの国境まで地図の上では直線距離50キロ足らず、黄金の三角地帯と呼ばれる悪名高い世界のアヘン栽培地、タイ・ラオス・ビルマ三国が接する地点まで200キロという秘境です。

 西双版納タイ族自治州の人口は65万、漢族を含めて13民族が住んでいます。川沿いに住むタイ族のほか、照葉樹林帯に住むハニ、プーラン、ラフ、ヤオ、ミャオ、ワ、イ、チワン族などの原住民の中には、日本人の風俗習慣と酷似する儀礼や伝承をもつ山地焼畑耕作民もいて、私はできることなら中国内陸の北回帰線以南の景観とともに、彼等の生活ぶりを一目かいま見たい思いにとらわれていました。

 私を含めどうしてもシーサンパンナを見たいという4人の留学生が、学院側から土曜日曜を含めて5日間の休暇をもらい、8月11日の朝、中国国際旅行社昆明分社から派遣された女性添乗員と昆明空港の待合室に向かいました。夜来の豪雨が未明に上がったので急遽フライトが決定し、知らせを受けて空港に駆けつけたのです。中国民航国内線は一般に雨に弱いのです。この路線も雨が降れば、有視界飛行で山越えする危険と落雷の危険とを回避するため、ほとんど欠航します。

 待合室の中には、明らかに漢族でない異民族の顔がありました。肌色が濃く、短い頭骨とホッソリした体型から、一見してタイ族とわかります。女性は独特の巻きスカートを腰に巻いており、極彩色の花模様はいかにも南方の民族です。すでにこの待合室にシーサンパンナの匂いがあるのです。

 ここからシーサンパンナへ飛ぶわけですが、西双版納タイ族自治州には飛行場がなく、一歩手前の思茅(スーマオ)まで飛び、あとは陸路になります。

 以前交通が不便だったころは昆明からシーサンパンナの州都・景洪まで行くのに、馬で1ケ月もかかったそうですが、今では空路と自動車道を利用し、外国人観光客は1日で景洪へ行くことができます。1980年以来、外人客は増える一方で、タイ族の新年にあたる4月の溌水節(水かけ祭り)の時期はホテルも超満員になります。一般庶民は路線バスに乗って、昆明から景洪まで快車(急行)で2泊3日の旅をします。日が暮れればバスを停め、運転手も乗客も旅社に泊まるのです。これもおもしろそうな旅ですが、このコースをとることは外国人には許されていません。

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* 水牛さまのお通り


 私たち4人を乗せたソ連製48人乗り双発プロペラ機アントーノフ24は、300キロあまりを軽々と飛んで、山あいの思茅(スーマオ)空港に着陸しました。

 中継地の思茅空港には、国際旅行社の8人乗りマイクロバスがわれわれを待っていました。空港からわずか10分足らずで到着した市内の思茅賓館は瀟洒な美しいホテル。ここで小休止して昼食。昼食後いよいよ景洪へ向けて、雨模様の中を長距離ドライブがスタートしました。マイクロバスで5時間、亜熱帯から熱帯へ北回帰線を南下して、深い緑におおわれた山間部を走り、1000メートルほどの高度差を一気に下るのです。約160キロあまりの行程です。

 だんだん熱帯らしい景観が開けてきます。平坦な道が椰子並木となり、尽きると再び山道です。起伏し曲折する道に時折軍用トラックがすれ違い、幌つきの後部荷台から砲身をにゅっと突き出している車もあって、辺境の緊張感が漂ってきます。

 薄陽が射してくると、水牛さまのお通りだィ、と威張って行進する水牛の一群に出会いました。徐行してやり過ごします。パパイヤ畑のそばに、村落が見えます。山の斜面に茶畑があります。ゴム園の木陰に、黒い民族衣裳をまとった少数民族の女性2人が腰を下ろしているのを見つけて、あっ、チンボー族じゃないか、スワ絶好の被写体!と大声で運転手に停車を命じたのですが耳を借さばこそ。まだ先が遠いと突っ走ってしまいました。

 間もなく前方から横なぐりの雨が降ってきました。道ばたの大樹の下に集まって、数十人の兵士たちが濡れそぼれています。断続する雨のおかげで、暑いぞと脅かされたシーサンパンナはまだ少しも暑くありませんでした。

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* 焼畑を見る


 山肌の斜面に、くっきりと若草色のじゅうたんを敷きつめたような部分がありました。地理学の諏訪講師がそれを指して説明してくれます。

 「あれが焼畑です。まだ焼きたてで今第1回の作物を作っているところでしょう。色からすると陸稲に間違いなく、この辺では一度焼けば4~5年は耕作するはずです。数年後には雑草が侵入し、今明瞭な境界がぼやけてきます」

 焼畑は道路わきからすぐ山の斜面に続いていました。鮮やかなグリーンが山焼きのあとの耕作地であることを示しています。黒焦げの樹木の残骸が、点々とグリーンの中に突っ立っているのが異様な景観です。われわれはバスを停め、焼けぼっくいの間を登って畑の中に入り、あたりの模様を撮影しました。

 焼畑とは、原野や山林に火を放って草木を焼き払い、耕作、施肥をせず、じかに陸稲や麦、雑穀の種をまく原始農法です。数年で地力が衰えて作付け不能になると、新たな焼畑を行います。焼畑はこのあと、一山を焼きつくして緑を破壊し、結局は禿山化したものまでさまざまな段階を見飽きるほど見ることになりました。

 ここでちょっと同行メンバーの顔ぶれをご紹介しておきます。

 シーサンパンナに飽くなき興味をもち、障害を乗り越えて、ともどもこの旅を企画したのは京都・煎茶道6代目家元の小川後楽さん、学習院大学地理学講師の諏訪哲郎さん、法政大学第一高校教諭の中川宏さん、それに私の4人でした。

 さて、午後5時40分に瀾滄江の濁流を越えました。滔々と流れる水はミルクコーヒー色。瀾滄江は東南アジア最長の大河、メコン河の上流です。全長4200キロ、チベット東部の青海省に端を発し、雲南省からラオス、ビルマ、タイを貫流し、ベトナムで東シナ海に注いでいます。

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* 黎明の町・景洪


 川を渡って間もなく到着した景洪賓館は、落ち着いたたたずまいでした。緑と花に埋まるように小さな館が点在し、収容人員200人というのに他人の視線を感じさせないぜいたくな広さがありました。澄んだ夕空の下に、黄色い果実が幾つも輝いている木は柚子樹といいます。やがて星が光りコウモリが乱舞するころ、別棟の餐庁で紅毛碧眼と同席して夕食をとりました。部屋へ帰ると蒸し暑くて扇風機にあたっていてもじっとり汗が吹き出します。浴室の中に裸のスイッチがあって電熱で湯を沸かすのですが、感電しそうで怖いのです。天井から吊り下げた円形の蚊帳をひろげてベッドに横になり、灯を消すと網戸にへばりついた壁虎(やもり)のシルエットがぼうっと浮かび上がるのでした。

 景洪は又の名を「黎明の町」といいます。小乗仏教を信奉するタイ族の間に、お釈迦さまがかつてこの地を訪れたとき、ちょうど夜が明けかけていて明けの明星がひときわ美しく光ったという伝説が伝わっています。それ以来タイ族の人はこの町を「黎明の町」と呼ぶようになったのです。

 8月12日、蒸し暑い一夜が明けました。食事前に景洪賓館周辺の朝市を散歩すると、煮込みうどん屋、ドンドン焼き屋、お汁粉ふう甘味の店などのほか、花ニラ、小ナス、細ネギ、長さ30センチを超すサヤインゲンなどを並べた八百屋や、一連5匹の川魚を売る魚屋などが出ていました。

 午前7時半、賓館で朝食です。野菜のナマス、漬け物の臭豆腐、タマゴ焼き、ソーセージ、粥と水餃子という献立でした。朝食のとき、私たちはガイドと打合せをしました。シーサンパンナには、1954年に発見され、1979年に中国の55番目の少数民族として認定されたジノー族約1万2000人が住む村があります。そこを訪れたいと思ったのです。ところがこれは、あらかじめ昆明の国際旅行社で責任者の承認をもらい、現地と連絡をとっておかなければ不可能なことでした。私たちはガイドの出来合いのお膳立てに従って、モンハイ茶工場の見学に出発することになりました。

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* 糸を紡ぐ少女


 午前8時半、モンハイに向かうと、ときに激流になる黄土色の渓流を左手に見て、マイクロバスは徐々に高地にさしかかります。水田を隔てて近くの山あいに白雲がたなびいていて、バスは雲と同じ高さを走っています。その時ちょうど並木道を7~8人のハニ族の娘が通りかかるのに出会いました。ハニ族の女性は働き者で、道を歩きながら手に持った棉花を糸に紡ぐという風習があるのですがそのハニ族に出会ったのです。車を降りてニコニコしながら近づき、後になり先になりして糸紡ぎのようすをカメラに収めました。

「棉ですね?」と聞くと「棉花(ミェンホワ)」と答えてくれたので間違いありません。上着とスラックスはありふれたものでしたが、ショルダーバッグに特徴があって、首かせのような木の板は、背負い篭の重量を分散して頭と肩で支える道具と思われました。

 午前10時20分、モンハイの町に入ると、生きているアヒル、バナナ、芋、豚肉などが街頭の自由市場で売られています。この町で外事部の男性が乗り込み、われわれが多少中国語を解すると知るとさっそくシーサンパンナのあらましを話してくれました。

 彼の話によると、「西双版納」とはタイ語のシプソンパンナに当てた漢字で、元は水田に囲まれた12の村という意味です。自動車がなかった頃は、山の竹を伐ってのんびり水牛の背で運んだものでした。竹の用途は製紙原料です。文字を書く紙でなく、硬くて丈夫なダンボールのような紙をつくります。

タイ族の信仰は小乗仏教ですが、その他の少数民族は、山有山神、樹有樹神(山には山の神があり、樹には樹の神がある)という多神教で精霊の存在を信じています。当地では昔から水田と茶畑をつくりますが解放後は熱帯植物の作付けが増え、バナナ、パパイヤ、マンゴーなどの果物のほか、コーヒー、ゴムも特産の一つとなり、ゴムの生産高は年間3万5000キロに達しました。

 それから彼は有名なタイ族の溌水節(水かけ祭)の3種の行事を説明してくれました。

 ボートレース「竜舟」は、日本の長崎、香港、シンガポールなどでも行われるもの。日本のさまざまな伝統行事の中にはその起源を中国に遡るものが少なくないのですが、その一つがここにもあったのです。竹ロケット「高昇」は真昼の打ち上げ花火、互いに水をぶっかけ合う「溌水」は相手を祝福し幸せを呼ぶタイ族の習慣です。時には敬意のあまり、観光客のカメラまでずぶ濡れにしてしまうことがあるそうです。

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* 自転車に乗った茶摘娘


 モンハイ茶工場に到着すると、自転車に乗った若い娘たちが大勢工場に集まっていました。ここは新鮮なお茶の葉を買い入れ、各種のお茶に加工して出荷する大工場なのです。娘たちは茜だすきはしていませんが、菅笠のようなものを被り、手に手に大きな布袋を持っています。摘んだばかりの新鮮な茶葉を売りにきたのです。買い入れは幾棟も並んだ加工場の一隅で行われていました。一人一人の袋を受け取り、目の前でカンカン秤にかけ、目方に応じて即座に代金が支払われます。思ったほど目方がないと黄色い声をはり上げて抗議する娘さんもいました。代金をもらって袋の中身を床にぶちまけて帰っていきます。

 するとこの工場の出口に甘いものの荷をひろげた天秤棒のおばさんが待ち構えていて、「ご苦労さんだねえ」などとお愛想を言います。荷の小皿にはミツマメのような色とりどりの食欲をそそるものが盛られていて、話しかけられた娘たちは握りしめた紙幣の中から幾許かを支払い、みんなで談笑しながらそれを食べます。空になった袋を指さして「売ったお茶の葉はあなたが摘んだの?」と聞くと、娘たちはまだあどけない表情で「ウン」とうなずくのです。「毎日来るの?」「ウン」。「自分の家の茶畑?」「ウン」。「自転車でここまで、どのくらいかかるの?」「2~3時間!」。同じ道のりをまた自転車で帰って行くのです。

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* 雲南茶を楽しむ


 工場長唐慶陽氏から、雲南茶の概略の話を聞きました。緑茶が非発酵、紅茶が全発酵、中国茶は半発酵などという基本的な話のあと、京都の煎茶道家元小川後楽氏との間に専門的な質疑応答があり、次いで茶の試飲です。

試飲の茶は何種類も大カップになみなみと注がれ、お腹がゴボゴボになりました。

 緑茶は大味で和風の繊細さに遠く及ばず、プーアル茶は独特のかすかなカビくさい風味がなじみにくいものでした。しかし紅茶はまさに佳品でした。ルビー色に輝く香り高い紅茶は、インド、ダージリンの一級品に勝るとも劣らぬ風味がありました。蒸して固めた磚茶(せんちゃ)という固形の茶は、番茶に似た実用おつとめ品という味。新疆ウイグルや内蒙古の遊牧民に愛用されているものです。

 この前年の1982年に、私は内蒙古自治区の区都フホホトから大草原の中のウラントクを訪れています。遊牧民のモンゴルパオ(蒙古包)に泊まったとき、初めて彼等のお茶を飲みました。その時のお茶の味がよみがえってきます。羊乳や馬乳、牛乳など動物の乳で茶を煮るのですが、濃いままでなく薄めます。そしてかすかな塩味をつけています。その時使われるのがこの磚茶なのです。大草原の乾燥した空気の中では、ことのほかおいしく何杯もお代わりしたのを覚えています。

 磚茶は蒸し固めてありますから、散らばらず携帯に便利なこと、保存性が優れ10年近く品質が変わらないこと、これが遊牧民に愛用される理由でしょう。それにしても北方遊牧民のお茶が南部のシーサンパンナでも生産されているとは知りませんでした。

 この工場で生産された製茶はすべて雲南プーアル茶という表示で包装されます。紅茶や緑茶はさらにその旨を表示します。雲南プーアル茶というと、香片(ジャスミン茶)や紅茶、緑茶などという種類の中のプーアル茶を意味し、また一面この地方でとれる茶全般の総称にもなるのでした。

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* 井戸は飾られていた


 翌日のシーサンパンナ第3日は、午前中にタイ族の曼真井塔と寺廟を参観し、タイ料理の昼食をとり、午後、船でメコン河上流の瀾滄江を遡行することになりました。いよいよタイ族農村の最深部に入るのです。水田の彼方には不思議な光る塔が見えています。

 村の集落でマイクロバスを降り「さあ曼真井塔を見にいきましょう」と先導するガイドの後から水田に向かって歩くと、間もなくバナナの葉陰からドームのような美しい小建造物が現れました。光る塔はこれだったのです。佛塔と見まがうばかりの装飾ですが中国式とは全く違い、タイ族の体臭を強烈に発散させています。赤、黄、青、白と彩色された塔のあちこちに色ガラスが埋め込まれていて、これが太陽を反射して、遠くからキラキラして見えたのです。

 井塔とは井戸のことでした。タイ族は井戸の上に塔を建てるのです。清水は塔の真下から滾々(こんこん)と湧き出しています。塔の裏手で少年が2人、水を汲んで黄色い僧衣を洗っています。塔を建てるのは雨水の流入や汚染を防ぐ昔からの習慣です。美しく飾られた塔ばかりではなく、荒れて塗料が剥げているものもありました。ひどいのは中塗りの土も落ち、積んだレンガがむき出しになっていましたが、井塔は見るからに“水神さま”といった情趣がありました。

 いくつかの井塔を見学してから村の家々の間を抜けてバスに戻る途中、棘だらけのサボテンを垣根にした小路を通ると犬がけたたましく吠え、赤ちゃんを抱いたお母さんが裸足で出てきました。

 私たち外国人の姿を見てニッコリ笑います。近づいて赤ちゃんを見せてもらいました。赤ちゃんはお母さんのハチ切れそうな乳房をしゃぶって眠っています。授乳は自然なことですから、お母さんは恥ずかしがる気配もありません。

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* タイ族少年僧院


 タイ族の村の名には必ずマンという言葉が付きます。マンは村の意味でマンが集まってより大きなモンになります。シーサンパンナには、元朝以来30あまりのモンがありました。茶工場のある孟海(モンハイ)もその一つです。タイ族の村、マンには村を鎮守する佛教の寺廟があります。私たちが次に訪ねた曼広竜では、小高い丘の上から村を見守るようにしてお寺が建っていました。黄色い僧衣をまとった坊さんたちが木陰に見えかくれしています。

 ビルマやタイまで数10キロのこの辺では、僧侶の風俗はそれら隣国と異なるところがありません。9歳から14~15歳の少年僧がたくさんいます。タイの佛教は現世利益の小乗佛教で、未成年のうちに一度は寺に入って修行しなければならないのです。境内の一隅は野天の教室になっていて、竹で編んだ桟敷には貝葉経が置いてありました。

 出家した少年たちはここでタイの文字を習い、短くて3ケ月、長ければ数年、日々経典を学び、写経をします。寺はまさに寺小屋で、登校拒否も自閉症もないタイ族男子の初等教育の場でした。出家している間の少年たちの衣食は村人たちが面倒をみます。

 曼広竜寺廟内部に足を踏み入れると、素朴な外観からは思いもよらぬ華麗な彩色佛像が鎮座ましましていました。御佛の近くには導師たちの臥床(ふしど)でしょうか、木枕と布団が数組整頓してありました。

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* 木の葉に書かれた記録


 貝葉経(ばいようきょう)という言葉が出ましたが、タイ文字の経典は貝葉樹という木の葉に書かれるのです。それでこの経典を貝葉経といいます。ふつう貝葉樹は寺の周囲に植えられるので、貝葉樹を見たら近くに寺があり、寺を見たら貝葉樹があると思って間違いありません。曼広竜寺廟の境内にはもちろん貝葉樹がありました。年に2度花を咲かせる植物が多いシーサンパンナで、この樹は生涯にたった一度しか花が咲きません。花が咲き実がなったとき、貝葉樹はたちまち枯れてしまうのです。

 インド佛教がシーサンパンナに伝来してから、タイ族は貝葉に経を刻むようになりました。貝葉経の作り方はまず貝葉樹の葉を切りそろえ、湯に漬けてから乾燥させ、綴り合わせて1冊とし、鉄筆でその上に文字を刻みます。書き終わったら植物油を塗ると、葉の上にはっきりした経文が現れるのです。1000年このかたタイ族は経典のみならず、詩歌や伝説、神話、寓話、格言などを貝葉に刻んできました。歴史や暦法、医学、薬学に関するものもあり、解放後、各地の寺廟で発見された貝葉経の数はゆうに500冊を超え、虫も食わず腐りもせず、長い年月の経過に耐えてタイ族の貴重な文化遺産となっています。

 タイ族の伝説では、昔々、漢族とタイ族、アイニ族は3人兄弟でした。天の神様に文字をもらいに行ったとき、長兄は紙に、次兄は貝葉に、弟は牛皮に文字を写しました。帰りに川を泳いで渡りました。濡れた紙を乾かすと漢族の文字は変形して四角張り、タイ族の貝葉の文字は何の変化もなく、アイニ族の牛皮の文字は何が何だか分からぬ形になりました。3人はお腹が空いて牛皮を分けて食べてしまったので、それ以来漢文とタイ文だけが後の世に伝えられたのだということです。

 午後、瀾滄江で船に乗る機会がありました。エンジンの振動に身をまかせてミルクコーヒー色の川水を無為に眺めていると、川面に西瓜のような坊主頭がいくつも浮かび、近くの岸に黄色い法衣が脱ぎ捨ててあるのが見えました。少年僧がオツトメの余暇に水遊びを楽しんでいるのです。彼等は水から上がると素っ裸で駆け回りました。法衣を脱いだ少年僧は、ただのガキ大将とおんなじです。

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* 村は小宇宙


 タイ族の家は一見2階建に見えるゲタばき式の高床構造になっています。人が住むのは階段を上がった高床部分で、広々とした階下は土間で、壁がなく、物置にしたり、ニワトリや豚を飼ったりしています。柱は木ですが、床や梁、壁など全体に竹材を使っていますので、タイ族の家はバンブー・ハウスという感じがします。

 こういう高床式農家の一つに立ち寄って、昼食を食べました。その家の奥さんと妹さんの手料理ですから、まぎれもない純正タイ家庭料理です。通された2階座敷は客間らしく、床の造りがほかの部屋と違って、手が込んでいました。竹を美しい網代に編んであるのです。しかしところどころ階下が透けて見え、歩くとフワフワして踏み抜きそうで怖いのです。壁も竹編みですからいかにも風通しよく、蒸し暑いシーサンパンナに適した構造だと思いました。

 奥さんは31歳、中国語が達者です。7歳年上の夫と1男1女、豚を飼い水田を作って暮らしています。この村の人口は690人、純農村です。外国人観光客にタイ料理を出すのが副収入になるそうです。奥さんの明るい話ぶりから、一家は何不自由なく日々の暮らしに満足しているようすがうかがえました。シーサンパンナに生まれシーサンパンナで暮らす、気候はよく、作物は豊かに実る。外の世界のことは知らなくても何の不足がありましょう。ここにタイ族の小宇宙がありました。2歳ぐらいの可愛い女の子がいまして人見知りせず、私の膝にも抱かれてくれました。

 私は草原に暮らすモンゴルの人々が、飲みたければ大地から飲み、食べたければ牧草で育つ羊を食べ、住みたければ羊毛を刈ってフェルト・テントを編む、すべてのものは草原にあるといっていたのも、忘れることができません。

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* 街頭の手術師


 西双版納タイ族自治州の州都、景洪では本格的なバザールが毎週日曜日に開かれます。

 8月14日、シーサンパンナ最後の日はたまたま日曜日でした。

 出かけてみると町のメイン・ストリートの両側に見渡すかぎり露店が続いていました。100店以上はあるでしょう。売られていたのは、竹篭に入れた子豚、アヒル、田ウナギなど生きたままの動物、畑から持ってきたばかりの野菜、果物、香辛料、主食の米といったぐあいです。

 魚の内臓を発酵させたもの、洗面器に入れて固めた褐色のプリン、豆腐などの加工食品もありました。雑貨や陶器、衣料品屋は出ていますが、電化製品はなく、工業製品の種類は少ないのです。少年僧の赤い帽子を売っている店がありました。それだけの需要があるのでしょう。白い布袋に詰められているのは豆類や野菜の栽培用の種子です。簡単な朝食を食べさせる屋台も出ていました。

 バザールのはずれにカン高い動物の鳴き声が響いて、人だかりがしていました。行ってみると半ズボンの男が刃物を持ち、片足のサンダルで子豚の首を踏みしだいており、それに向き合って白髪の男が豚の両足をつかんでいます。豚は身動きできないので目を剥いてひっきりなしに悲鳴を上げる。その悲鳴が、まあ、ものすごい。あたりに響きわたる声でキーッと叫ぶのです。サンダルの男はおかまいなく豚の下腹部を小さく切開し、奥深く糸を通します。そして糸の両端を手に持ち、左右に数回しごいてから豚の腹をポンと叩くと、切開口から小さな臓器が飛び出してきました。男はそれを水を張った洗面器にほうり込み、傷口に消毒液をたらして縫い合わせます。豚の毛を剃ってから縫合まで、10分足らずの早技です。

 豚の次はニワトリです。ニワトリはもっと簡単です。豚とニワトリを抱えた人が、列を作って順番を待っています。いったいこれは何なのかと聞くと、肉質を柔らかくし、肥らせて目方を増やすために、雄豚と雄鶏を去勢する手術なのでした。豚やニワトリを各戸で飼っている中国ならではの職業です。

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 * 終わり良ければすべて良し


 とうとうシーサンパンナを離れることになりました。午後マイクロバスで思茅へ戻り、翌日飛行場へ行くと、昆明が雷雨のため飛行機が飛来せず、本日欠航です。次の日の朝、飛行機は無事到着したものの出発に手間どっているうちに雨が降り出し、再びホテルに逆戻りしました。昼食を食べ雨がやむのを待って、ようやく飛び立ったのが午後4時半過ぎだったと思います。

 異変が起きたのは、飛び立って20数分後のことでした。客席は横に4列、前後に12列、中央に通路があります。私たちは最前列に、左から法政大学第一高校教諭の中川宏さん、私、学習院大学講師の諏訪哲郎さん、小川流煎茶道家元の小川後楽さんの順に並んでいました。ぼんやり左の窓を眺めていると、ブルンと機が身震いして目の前のプロペラが停止してしまったのです。瞬間、左へスリップしたように感じました。

「おや、エンジンが止まっちゃった」とつぶやきながら、私はまだ何の恐怖も感じていません。テープレコーダーを取り出し、時計を見ると、午後5時3分です。左発動機はそのまま沈黙したきり動きません。

 機はしきりに機首を上げようとしているようですが、私の席から外のようすは皆目わかりません。思茅より標高が高い昆明へ帰るのですから、片肺の馬力で大丈夫だろうかと心配になります。右の窓に額を押しつけていた小川さんが「前に高い山がある!」と指さしますと、客席に低いざわめきがひろがりました。スチュワーデスが急にキャンデーを配り始めて、なだめるように「没関係!没関係!(なんでもありません)」と声をかけます。

 前方のドアが開いて男性乗務員が顔を出し「没関係、放心了(大丈夫です、安心して)」と叫びますが、何の状況説明もないのです。諏訪さんと小川さんは、膝の上に雲南省地図を取り出して食い入るように見つめています。

 5時10分。「前に山はありますか?」と私が聞くと「左の山は飛行機よりずっと上です」と中川さん。「右は谷間です。いま山と山の間にうまく滑り込んだ。山の切れ目がなかったら衝突するところだった」と小川さん。

 片肺になった右エンジンの音が急に低くなったり高くなったりして、「こっちのも調子悪いよ」と小川さんが暗い声で言います。

 「小川さん、いま何を考えてる?」と私は録音機を差し出します。墜落しても燃えなければテープは残るでしょう。こういうときは、何でもかでも記録しておきたい気持ちになるんです。「まだ大丈夫というのが80パーセント、だめならだめでもういいというのが、20パーセント。それにしても気持ち悪いね。死にたくはないよ。でもプロペラ機だから翼が広いし、かなり滑空できる。地図の上ではそろそろ湖水が多い地域に入るから、どこでも湖水に着水すれば不時着しても命だけは助かると思ってるんだけどね」。

 「諏訪さんは?」「私は図太いのか、あんまり怖く感じません。ただこの飛行機が満席なので、オーバーウエートが心配です」。

 5時28分。気流悪く機体が大きく揺れました。シートベルト着用のアナウンス。昆明湖はまだ見えません。山あいを縫うように飛び続け、エア・ポケットに入って高度が落ちるとギクリとします。

 5時36分。相変わらず下界は山また山ですが、やっと畑と平地が多くなりました。見えてきた湖水はどうやら昆明湖らしい。

 5時40分。「山肌にカルストが見えます。地形はもう昆明です。湖は昆明湖です」と左の窓から中川さんが報告します。

 やがてガタンと脚が出ました。真下が昆明湖、彼方に西山。しかしエンジンは再び馬力を上げ、脚を引っ込めてしまいます。滑走路はまだ見えません。脚を出したのはテストでしょう。高度がどんどん下がります。左の窓から今度こそ湖畔のポプラ並木が間近に鮮明に見えます。再び脚が出て、急角度で降下、ストンと大地に脚が着きました。みごとな操縦です。

 とたんに機内にドッと拍手が湧きました。アメリカ人も中国人もみんな声を上げて笑いました。スチュワーデスの何事もなかったかのような到着アナウンス。窓の外を見ていた中川さんが、「消防車が何台も後から追いかけてきます」と言います。停止した機を地上勤務員たちがワッと取り囲みました。降りるとき後部座席のひとつがお尻の形にびっしょりと濡れているのに気がつきました。誰かが失禁したらしいのです。

 帰国後調べたところでは、双発プロペラ機アントーノフ24は巡航速度360キロ、航続距離1300キロ。1960年4月の初飛行以来、現在も軍用貨物機、民間旅客機として、ソビエト、東欧、中国、アフリカの一部などで広く使われている安全性の高い飛行機でした。事実、片肺で満席の客と荷物を積み、無事に帰還したのです。それにパイロットの腕が確かでした。

 中国民航のパイロットは軍人あがりのはずですから、当然戦闘訓練を受けているでしょう。こういう故障には強いのです。

 「ご無事でよかった」と、握手を求める中国国際旅行社昆明分社の社長ほか数人、彼等の出迎えは異例のことです。いまこの空港に、昆明全市の消防車が集まっているそうです。救急車と医者も、待機していました。そばからこの6日間のシーサンパンナの旅に同行したガイドの丁武群嬢がいいました。

 「着地シタトキ、皆サン、ココロカラ笑イマシタ」 (ジャルパック・センター1984年青柳森著 「西双版納から絹道へ」から抄録)

地球ウォーカーへ』



2.台湾山地紀行

 
* アミ族の青年・林阿貴
* ルカイ族のルバルバおばさんの昔語り
 

* アミ族の青年・林阿貴


 台湾原住民アミ族(阿美族)の青年、林阿貴(リン・アクェイ)の夜目のきく光る瞳を、今でも私は覚えている。初めて彼と出会ったのは、かれこれひと昔前のことだ。その年の夏、私は台湾随一の景勝タロコ大峡谷を訪れるため、単身、探勝の基地、花蓮(ホワリエン)に向かっていた。

 花蓮へは台北から飛行機で行くルートがあるが、飛行機はいささかあじけない。旅の目あての一つは、蘇花公路というスリルあるバスルートを通ることにあった。蘇花公路は蘇澳(スーアオ)と花蓮を結ぶ全長118・5キロの臨海道路で、1925年から14年の歳月をかけ、多くの工事犠牲者を出して完成した。台湾観光協会は「世界一の臨海道路」だと称している。

 蘇花公路の一部はかなり古い時代から、そそり立つ断崖絶壁を切り開いて造られたらしい。全線開通してからは、ときに海面から200メートルの高さとなるたった1車線のハイウエーを、路線バスがフルスピードで突っ走るようになった。

 私はまず台北駅から宜蘭線の鉄道に乗って、宜蘭線の終着駅蘇澳に行き、ここで花蓮行き公路局定期バス、『金馬号』の座席指定券を手に入れた。1977年7月のことである。

 定刻午後1時25分、『金馬号』は蘇澳をいっせいに発車した。いっせいにというのは『金馬号』は1台だけではなかったからだ。私が乗ったのが7号車、そのあとに10数台が続く。台北から花蓮までの全線直通バスのほか、途中始発のバスも加わり、なんと20数台の『金馬号』がいっせいに花蓮へとクツワを向けるのだ。公路局バス部隊が先頭を切って発車すると、一般トラック、乗用車が蜒々と一列縦隊で走り出し轟々とすさまじい。

 行く手には1台の対向車もない。道幅が1車線でスレ違いができないからだ。したがって上りは上り下りは下りと、完全な時間制一方通行となっている。かりに1台でも規則違反の対向車があれば、それこそ互いに進退谷(きわ)まってしまうだろう。

 垂直の絶壁に刻まれた小道を、右に左に九十九折(つづらおれ)して突っ走るときのスリルはたとえようもない。眼下に広がる太平洋、人跡途絶えた断崖に打ち寄せ砕け散る波、奇岩怪石。これら眺望をほしいままにするには、ぜひ海側で窓ぎわの席を指定しなければならない。つまり蘇澳から南下するときは進行左側の、花蓮から北上するときは進行右側の見晴らしがいいのである。だが小心な人にはすすめられない。車窓から見下ろすと道路が見えず、はるか絶壁の下の白波が心臓を凍らせるからだ。

 山を登り谷を越えて小一時間、平地の村落に入ると小休止である。山地民の物売りが集まってくる。新鮮な果物、レンブ、バンザクロ、マンゴー、パパイヤ。彼等の口からふととびだす日本語。日本語は山地民異部族間の共通語なのだ。南澳、和平など数ケ所で小休止し、バスは花蓮市へ午後5時半に着いた。

 この『金馬号』に約4時間乗っている間に、ちょっとしたハプニングが起きていた。隣席にやはりひとり旅の青年が座り、長旅のつれづれのまま、彼はカタコトの日本語で、私はカタコトの中国語で話を始めていたのである。彼が1通の書状を取り出して見せたのがきっかけだった。その書状は彼、林阿貴への10日間の召集令状であった。昔日本にもあった簡閲点呼(かんえつてんこ)に相当するものだろう。入営のため郷里へ帰るという林阿貴と、さらに筆談で話がはずんだ。青年が書く漢字は私よりずっと達筆で風格があった。

 やがてバスが花蓮に近づくころ、今夜はどこに泊まるのかと聞く。私はどこにも予約をしていなかった。すると彼はぜひおれの家へ来て泊まれ、おれは日本語がヘタだが姉も祖母もペラペラなんだからと、熱心に私を誘った。

 暮れなずむ山間を、花蓮駅始発の台東線ディーゼル急行列車がぐんぐん南下する。レール幅は76センチというトロッコ並みの狭軌なのに、時速は80キロを超えているだろう。バスが花蓮に着いたあと、近くだからという青年の言葉に、ついいっしょに列車に乗ってしまったのだが、走れども走れども、いつかな青年は降りようとしない。すぐ近くだという青年の村は、なんと終着「台東」の数駅手前にある「池上(チーシャン)」なのであった。

 青年の家へ着いたとき午後9時を過ぎていた。農村の夜は早い。家中寝静まっていた。足もとにヤモリがはう板の間に蚊帳だけ吊って、敷物も敷かずに2人でゴロリと横になった。翌朝ブタの鳴き声で目が覚めた。枕もとがブタ小屋だった。

 朝食にミソ汁をふるまわれたあと、急に賑やかになった。青年の姉は忘れかけた日本語をポツリポツリと話したが、やがてそれこそなめらかな日本語を話す人々が近隣からどっと集まってきた。私を珍しがって口々にいう。オートバイに乗せて行くから、おれたちの田植えを見てごらん。昼めしはぜひおれの家で食ってくれ。日本人に会うのは30年ぶりだよ。日本からきた手紙なんだが、ここんとこの意味を教えてくれないか。

 そしてみんなでモチをついてくれた。そのモチのなんとあたたかく、やわらかく、おいしかったことか。田植えを見せてもらった。豚足と黄酒(ホァンチュウ)をごちそうになった。そして昼間から酔っぱらってしまった。不意に現れた一面識もない外国人に池上郷の人々が示した好意は全くの無償の行為である。私はただただ感謝するばかりだった。

 帰国後引き伸ばした写真を台東県池上郷に送り、台北で働いている林阿貴とは文通が続いた。彼が結婚し長男が生まれ、妻が小さい美容院を開いたと聞いたのは数年後のことである。その年台湾の日本語学習ブームを取材に行った機会に、私は路線バスを乗り継いで道に迷いながら台北県土城郷に彼を訪ねた。ま新しい美容院には椅子が二つしかなかったが、客が立て込んで奥さんは手が離せなかった。住まいは近くの海山炭鉱の中だという。まるまると太った長男を抱いて幸せそうな彼ら夫婦の新生活を、私は心から祝福した。

 林阿貴は私を炭鉱住宅に案内し、棟割り長屋に住むアミ族の親類友人に紹介し、前夜から準備したという手の込んだ酒肴でもてなしてくれた。日本語はここでも年配の大勢の人に通じた。彼等は「アミ族の豊年祭を見たことがあるか。ないなら次はぜひ池上か、この土城においでよ」といった。

 それから数年、音信が途絶えていた。ある日、新聞が台湾の炭鉱災害を小さく報じる記事の中で、「海山炭鉱」という文字がふと目に入り私は愕然とした。1984年6月20日台北県土城のこの炭鉱で炭塵が爆発し72人が死亡した。台湾では未曾有の惨事が起きたのだ。しばらくして詳報が伝わった。死亡者名簿に林阿貴の名があった。

 連日多数の遺体が収容される中で、彼は事故から1週間たった6月26日、72人(最終的に101人)中の65人目にようやく発見されている。最も深いところで働いていたのだろうか。

 池上郷は「台東の穀倉」と呼ばれる豊饒の地である。人口1万3千余。しかし池上米として名高い稲作は、主として平地に住む人々が行なっている。アミ族の居住地は多くは稲作に適さない傾斜地か石コロ畑である。このためアミ族は出稼ぎに出て、基隆(キールン)港で漁業に従事したり、遠洋航海や炭鉱に職を求める者が多かったという。「海山炭鉱」で働く人の3分の1以上は台東県のアミ族であり、池上郷出身者も少なくなかった。

 2年前の6月20日、林阿貴は29歳の生命を地底で散らしたのだ。「豊年祭には本当においで」「いっしょに山の友達のところへ遊びにいこう」「必ず日本に行くからそのときはきっと訪ねるよ」。澄んだ瞳でそう語ったアミ族の青年はもう日本に来ることはない。

 1980年、台湾鉄路東部幹線の北廻線が開通した。そして台北から急行列車に座って花蓮まで行けるようになった。当時のビッグニュースだった。人々は争って鉄道切符を買い求め、一時は台湾で花蓮観光ブームが起きた。逆に蘇花公路バスルートの人気は急激に低下した。

 鉄道は便利になった。乗り換えと待ち時間がないし、なにより台北を出発してから花蓮まで、特急2時間半、急行3時間というスピードがすばらしい。搭乗手続きがめんどうな飛行機と比べても遜色ない。ただ便利になって野趣が薄れた。この北廻線は蘇澳を過ぎると東澳から先にトンネルが多い。人跡途絶した大自然そのままのような海岸線や、断崖絶壁の奇観を楽しむには全く不便になった。一方、以前からの蘇花公路はまだ健在である。一般の観光客に人気がなくなったとはいえ、このルートの景観を知る人や沿線住民はこの線を利用している。

 林阿貴の思い出と重なるこのバスルートを、私はいつかもう一度心臓を凍らせながら走ってみるつもりでいる。2.台湾山地紀行へ

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* ルカイ族のルバルバおばさんの昔語り

ルカイ族のルバルバおばさんは今年(1986年)61歳。13人きょうだいの末娘に生まれたが、兄と姉はもうみんなガケから落ちたり、マラリヤにかかったりして他界してしまった。自分は結婚して男2人、女3人の子供を生んだ。

「家の中で生んだこともあるけど、畑で生んだことの方が多かったです。畑で生んだときは尖った石を探して胎盤とヘソの緒を切り離すんです。ヘソは結んじゃダメ。カズラの蔓でしばります。自分でしばるんですよ。怖いことは何もない。胎盤は家に持って帰ってていねいに埋めます。人が踏んで通らない場所を探してね。決して畑に埋めちゃいけないんです。もし赤ちゃんのおヘソが落ち着かなくて出血したら、埋めた場所へ行ってみる。するときっと汚されていたり、アリがついていたりするんです。それをきれいにしてやると、血はすぐ止まります。それから赤ちゃんが食べたものを吐くのは、オシメをうっかり他の物といっしょに足で洗ったからです。オシメは絶対手で洗わなければなりません」

 台湾南部、屏東県三地門の高山族の村でルバルバさんに出会ったのは2年前のことだ。少数民族研究家で医師の太田虎雄さんの紹介だった。初対面のとき、ルバルバさんはなめらかな日本語で、

「私は坂本セツ子と申します。お父さんお母さんがつけてくれた山の名前がルバルバで、漢字の名前は陳阿修です」といった。

 三つも名前があるのはこれまで生きてきた時代のせいだ。

「赤ちゃんが生まれたあと、初めて畑に連れていくとき昔からのしきたりがあります。村からちょっと離れたところにクバルという場所があります。そこで形のいい石を見つけて持っていった豚肉やモチをのせて天の神様に食べさせるんです。そしてお願いします。今日初めて赤ちゃんを畑に連れていきます。悪いことが起きないように、畑に作物がよくできますように、鳥をよく鳴かせて私たちを守ってください。一所懸命、石に肉をのせて神様に食べさせるんです」

「すると鳥の声が聞こえてきます。鳥というものにも男と女があって、ギャッコ・ケコ・サラカウと鳴いたら男鳥、ケル・ケルッケルと鳴いたら女鳥ですよ。人間だって男と女では声が違うでしょう。そして男鳥が先に鳴き、続いて女鳥が鳴いたら、ああよかったといってそのまま畑にいくんです」

「サラカウ(男鳥)だけがギャーカウ・ギャーカウと鳴き続けるときはダメ。しかたないからずっとモチを食べさせます。そのうちサラカウがサラカウ・サラカウと鳴き、女鳥がケルケルッ・ケルケルッと返事したらもうだいじょうぶ。さあ畑にいきましょうと、子供をおんぶして畑にいきます。もう子供は絶対病気しません。とてもからだが元気。そんなものですよ」

 女鳥が先に鳴いたら不吉だ。もうそこから一歩も先へ歩いてはならない。立ち止まって男鳥に早く鳴いてくれと祈る。この禁忌を犯すと石につまずいてケガをしたり、ガケから落ちたり、果物や粟のみのりが悪くなったり、ろくなことが起きない。一所懸命祈って待つ。運がよければサラカウ・サラカウという声が聞こえ、やがてケルッ・ケルッと女鳥が鳴く。

 三地門へは工業都市高雄の東方、屏東の鉄道駅前からバスが出ている。サトウキビやビンロウ樹の畑が広がり、いかにも南国らしい平野を走ること小一時間、道路は狭まって隘寮渓という川にぶつかる。堤防に沿って右折すると間もなく、水門という集落に入る。水門村は平地と山地の接するところで、古来、山地の産物と平地の作物の交易で賑わってきた。三地門へ行くにも、もう一つの山村の瑪家郷へ行くにもこの水門が起点になる。交通の要路であり、薬局、医院、オートバイ修理販売店、小吃部(軽食堂)、旅社(旅館)、電気屋、雑貨屋、自転車預かり所などがある。このあたりまでくると民族衣裳に身を飾った高山族の女性を見ることができるので、そうした山地の風俗と山間の風景を眺めるために、日曜日に屏東から約20キロの道のりを自転車に乗って、家族連れで三地門へ遊びにくる地元の人が少なくない。ごうごうと水音が聞こえる。水門橋の対岸で地下水路を通ってきた水が噴き出している音だ。山の向こう側から水源を引いたのは日本時代の台湾製糖会社である。

 高砂族というのは台湾土着の先住少数民族の総称で、中国語では高山族という。台湾では近年彼等の文化、生活様式、伝統民芸を保護、保存しようという動きが盛んになっている。その一つが三地門の隣、瑪家郷の台湾山地文化村で、1979年から10年がかりの建設が進められている。広大な敷地に山地民9族の生活と伝統を系統的に紹介しようという試みで、最近一部の区域がオープンした。

 台湾の人口は1900万、うち約30万が高山族である。山地(または離島)に住んでいるのは、12万を数えるアミ族を筆頭に、アタヤル(タイヤル)、パイワン、ブヌン、ルカイ、プユマ、ツォウ、ヤミ、サイセットなどの各族で、言語と生活習慣が違う。相互に言葉が通じないため日本時代に日本語が共通語となり、今でも中年以上の人々は日本語を使っている。

 三地門10か村の中、三地門村は屏東からのバスの終点「三地門公所(役場)」の下、ゆるやかに降る傾斜面にひろがっている。戸数約280。中に毒蛇ヒャップラを彫刻した家がある。それが頭目の家だ。ヒャップラの紋章はパイワン貴族の象徴で、平民が模倣することは許されない。

 ルカイ族とパイワン族は近縁関係にあり、昔バルン(人間)がヒャップラと結婚したという伝承から、共に祖先は蛇だと信じている。

「壷から生まれた、サトイモから生まれた、びんろう樹から生まれたなどの昔話は部族によってみんな違います」

 というルバルバさんに、ヒャップラとはルカイ語かパイワン語かと聞くと、ヒャップラは日本語じゃないですかと反問された。ひゃっぽだ、つまり百歩蛇だったのである。ルカイ語ではパラータ、パイワン語ではカナワナンというそうだ。

 ルカイ族のルバルバさんが結婚したのはパイワン族のグアンさん(漢字では陳俄安、日本名で坂本謹吾)である。半世紀の昔、異部族間の通婚はたいへんな事件だったらしい。頭目と頭目が話し合って普通1回飲めばすむアワ酒を、4回も作ったという。嫁にいけば1か月以内に死ぬぞと脅す人もいた。川と土地の境界争いが絶えず、互いに首狩りをしてきた仲だったからである。「でもこんなに元気です」とルバルバさんはにっこり笑った。だがそんな異部族間にどうして結婚話が持ち上がったのだろうか。

「頭目と頭目が集まったとき、うちの人がルカイのルバルバはどうだろうと聞いたんです。すると貧乏しているが正直な女だといってくれた人がいて、それからお話が始まったんです」

 どうやらグアンさんのひと目ぼれだったらしい。ところでルバルバさんは山地の文化財に興味を持っている。

「私が三地門で私設の民芸館を開いたのはずいぶん古いことになります。展示してある山地11族の民芸品、骨董品はみんな私が山を歩いて集めたものです」

 屏東市立文化センターに山地文化展示室ができたのは数年前のことだ。ルバルバさんが所蔵品を貸し出し、太田虎雄氏が考証と解説を担当した。太田氏はこのときを含め、山地文化保存の功績で文化センターから栄誉賞を贈られている。

 展示室には少女刺青のようすを再現した人形がある。少女は15歳になると、手の甲に刺青(入れ墨)をする。ナベズミをミカンの枝の棘で埋め込むのだが、そのとき、1週間は水と食事を極端に制限する。水を飲むと腫れるし、たくさん食べると色が悪くなるからだ。1日に焼芋1個でがまんする。刺青は結婚適齢期になったことの資格証明である。

 ルバルバさんは「山の話を始めたら1か月かかっても2か月かかっても話しつくせません」という。子供の頃は花畑を作り、カイコを養い、山を見るのが好きだった。

「おじいさん、おばあさんが畑から帰ったあと、夜はタイマツを石板の間にさし込んで、その灯の下で、ある者は織物をし、ある者は布袋を作り、ある者はぼんやり見ており、そしてある者は昔の物語をする。私はまん中でお話を聞いている。それがいちばん好きだった。字は書けないけれど、お話はいつまでも頭に残っています」

 だが最近三地門でも瑪家郷でも、若者の数が少なくなった。若者は町に出ていき、あとに老人と子供が残る。しだいに山奥と町との距離が縮まってくる。昔話の伝承は風前の灯だ。風俗も変わっていく。年寄りにとって「握手」なんて見ちゃいられないほど気持ちが悪いことだが、若者たちの考え方は別だ。でも外来者はうっかり子供の頭をなでたりしない方がいい。「首がほしいのか?」と山の人は激怒する。禁忌は気づかないところに残っている。

 付近の山では鉄平石に似た岩石が採れる。上手に割ると板状になる。パイワン族とルカイ族はそれを建築材料にして、床から壁、屋根まで石造りの家を建ててきた。

「石板は小さなカナヅチで割っていくんです。でも運が悪いと小さく割れてしまう。石板の家は涼しいですよ」

 夏涼しく冬暖かい伝統の家は、しかし徐々に近代的な文化住宅に建て替わり、入山許可証(高山族居住区に入るための警察の許可証)を必要としない区域ではほとんど見られなくなった。グアンさん、ルバルバさん夫妻の持ち家のうち、最も高い所にある1軒が石造りの家である。庭に高床式の穀倉小屋があり、柱の上部にネズミ返しがついている。裏手は隘寮渓の谷間に面していて見晴らしがすばらしい。私はこの石の家に泊めてもらい、陳夫妻の話を聞き、石のベッドで寝た。山の生活の中で考案された石の家の住み心地は、至極具合いいものだった。2.台湾山地紀行へ       (月刊「東京消防」 1986年10月号~11月号)

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3.平遥古城の碑文


 中国・山西省にある平遥古城は14世紀に建設された町で、1997年にユネスコ世界遺産になった。

 私が平遥古城を訪れたのは1999年のことだ。町は漢代の都の面影を残し、旧市街は正方形でその外縁に堅固な城壁が巡らされ、城壁の外に新市街が無秩序に発展していた。延長6キロの城壁に登って散歩すると、旧市街の家々の優雅な門構え、四合院の造り、座敷内の装飾、中庭、また庭先で家事をする人々の動きなどが、高い位置から手に取るように見下ろせた。

 山西商人が活躍した18世紀から19世紀にかけて、平遥は中国経済の中心であった。平遥に誕生した日昇昌は、票号(為替銀行)の先駆として、日本の大阪、神戸にも支店を持ち、清朝の国庫を代行した組織だった。

 清朝が崩壊して日昇昌は急激に衰退した。オールド・タウンの真ん中の本店は今は票号博物館である。入場するとディスプレイの人形が銀を秤っていた。銭荘の銀庫には為替記録などが保存されている。

 旅して道を歩くと新しい発見がある。道を歩くとき、私は好奇心の塊になる。平遥の散歩では、道端に石碑が並べて展示してあるのを見つけた。碑面のひとつに、「貪官汚吏劣紳土棍為人群之大害依法律的手續非除了他不可」と書かれている。それを写真に撮った。

 碑文は名家の筆跡でも、歴史の記念碑でもない。マスコミが未発達だった当時、司直の布告を石に刻んで街角に立てたものと思われる。貪官、汚吏、劣紳までは分かるが、土棍(どこん)が分からない。帰国して広辞苑を引いた。広辞苑には土棍という見出し語が見つからないので漢和辞典を引いた。[棍]の文字はチンピラや無頼漢を意味するものだった。

 愛知大学中日大辞典を引いて[土棍]を見つけた。ところが、[地痞(ちひ)]を見よとある。地痞の項を引いてようやく「地回り、土地のよたもの」という語釈を得た。

 石碑の文の後段で、当局は「法律的手続きに依り大害を排除すべからずんば非ず」と警告している。最近の日本は、ご承知の通りの世相である。「羊頭を掲げて狗肉を売る」がごとき商法は雪印食品の牛肉産地偽装事件から始まって、あの会社でもこの会社でもと悪事が露見し、今や牛肉のみならず鳥肉でも豚肉でも食肉の産地表示を疑わしい目で見ない人はいなくなった。商業道徳も地に堕ちたものである。あい前後して外務官僚のカネをめぐるゴタゴタが始まった。

 政治とカネの騒動は国会議員の政策秘書給与に飛び火して収まる気配がない。貪官、汚吏、劣紳がズラリ居ならんで、百年河清を待つ観がある。碑文は万古不易の真理なのかもしれないと考え込んでしまう。最近は平遥古城を旅程に組み込んだ格安の中国ツアーが発売されている。山西省にお出かけのときは、是非この興味ある石碑をお見逃しなく。

 この旅ではもう一つ意外なことがあった。初めて訪れた建物なのに、何処かに見覚えがあり、懐かしいという不思議な体験をしたのだ。建物は山西省の省都・太原から40キロ南下したところにある旧家、喬家大院である。

 清朝初年、金融業に成功し栄えた喬家の邸は、贅を凝らし気宇壮大。部屋数は300室を超える。赤い燈籠と青い甍が美しい。赤い燈籠を見ているうちハタと記憶がよみがえった。私はこの建物を映画の中で見たのだった。

 映画は3人の妻妾を持つ好色な富豪に、新しく第4夫人として、19歳の娘が嫁入りする物語である。タイトルは[大紅燈籠高高掛]。日本では[紅夢]という題名で公開された。劇中の旧家の当主は夜毎意中の女を選び、女の寝所に合図の紅燈籠を吊す。紅燈籠をめぐって妻妾が争う筋立てで、1991年ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した作品である。

 製作スタッフは、監督に[赤いコーリャン]でベルリン国際映画祭グランプリを受賞した張藝謀(チャン・イーモウ)、エグゼクティブ・プロデューサーに[非情城市]を監督した台湾の侯孝賢(ホウ・シャオシェン)、主演は美人女優ナンバーワンの鞏俐(コン・リー)という陣容だ。劇場公開の後、NHK衛星放送で1996年2月に放映された。

 喬家大院はいま県の博物館になって公開されている。私は知らずに[大紅燈籠高高掛]のロケ地を歩いたのだ。映画との関連を別にしても家具什器とともに保存された300余室の大民家はザラにあるものではない。山西省を旅するとき日昇昌票号博物館とともに、必見、オススメの博物館である。      (月刊「道路建設」 2002年6月号)

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4.中国で日本語を教えて


 1987年5月、私は中国吉林省長春市の白求恩医科大学日本語培訓中心(日本語研修センター)の門をくぐった。日本留学を希望する医学者が全国から選ばれて、この大学に集まっていた。私を含む4人の日本人教師は、現地の日本語スタッフとともに彼等の留学前の研修を行うため赴任したのである。目的は日本へ留学してから一人で行動できる生活日本語を教え、また以後独習できる基礎をつくることだった。

 研修は日本の財団が設立した中国人医師への10年計画の医学奨学金制度の一環として行われた。受講者は研修終了後、直ちにこの奨学金によって1年間日本に留学することになっていた。

 アイウエオからスタートし日本語初級課程を修了するまで、与えられた期間はわずかに3ケ月であった。これを年2回、夏季と冬季に実施するのである。10年計画の初年度の2回に私は参加した。日本留学を控えた研修生の学習意欲はまことに旺盛だった。仕事を離れ、家庭を離れての集中研修は、学生にとっても教師にとっても、真剣勝負の白熱した3ケ月だった。短期間にこの課程を無事に終了できたのは、単に教師陣の力だけではない。

 私のクラスの学生の中に、まもなく新潟大学で藤田恒夫教授(日本ペンクラブ会員)の指導を受けることになる梅_(メイ・チ)君がいたのは全くの偶然である。

 偶然と言えば、そもそも私が中国へ日本語を教えに行くことになったのも、幸運な巡り合わせだった。アナウンサーとして入社し、33年余り勤めた文化放送で間もなく定年を迎えようとしていた私は、定年後の仕事として日本語教師を選び、拓殖大学の夜間日本語教師養成講座に通っていた。

 放送局での最後の職場は報道部で、昼間は放送記者として東京消防庁記者クラブに常駐していた。消防庁には月刊「東京消防」という職員雑誌がある。その雑誌に依頼されて、<地球のはじっこ>という旅の記事を連載中だった。かつて訪れたパプア・ニューギニアのことを書いたとき、たまたまパプア・ニューギニアで日本語を教えていて帰国したばかりの青年教師と知り合った。ウマが合ったというのだろうか、私は「来年いっしょに中国へ行きませんか」という彼の誘いに応じ、バタバタとスケジュールを決めた。

 アナウンサーをしていたとはいえ、外国人に日本語を教えるのは初めてである。理論は講座で学んだが実務経験がない。半年後、会社を定年退職した私は、青年教師が所属する日本語学校で教壇経験を積みながら、中国へ持っていく器材の準備と教材の制作に明け暮れていた。

 日本側が無償で提供した器材は、オフセット印刷機、複写機、パソコン、ワープロ各1台、ビデオ装置6、教室用テープレコーダー5、学生用小型テープレコーダー55、ダビング機2、ほか教科書60セット、図書300冊、日本地図、世界地図、50音表などであった。用紙からインク、修理部品まで持っていかなければならない。

 赴任してみると研修生の年齢は26歳から49歳、5分の1は女医さんであった。大学教授クラスの人もいた。平均年齢は夏が38.4歳、冬は2歳若くなった。専門はさまざまで内視鏡医、脳外科医、薬理分析、疫学などと広く各科にわたり、他に漢方医もいた。彼等は中国全土から選ばれていたので、冗談に、私たちは中国旅行をしてどこで病気になっても教え子がいるから安心だねと笑ったものだ。それにしても、最年少26歳の青年医師と最年長49歳のベテラン医師とが机を並べて未知の日本語と取り組んだのである。

 中国東北の長春は私たち日本人のみならず多くの研修生にとって始めての土地だった。上海から布団を背負って満員列車を乗り継いできた研修生もいた。なぜ布団を背負ってきたのかと聞くと、未知の土地の事情が分からなかったためだと彼は答えた。中国社会は急速に変貌しつつあるが、まだ日本のように画一的な社会ではない。広い国土に56族の民族が住み、経済水準は一様ではなく、モザイク模様のように暮らしの濃淡がある。

 教室の中では、中国南方方言を話す人々に共通することだが、ラ行とナ行の発音の矯正に苦労することがあった。南方ではラとナの発音をほとんど区別しない。従って彼等の耳はラとナを区別しない。教師の発音を聞き分けることができない。ラリルレロと言わせると、ナニヌネノになってしまう。オレンジジュースは、オネンジジュ-スになる。

 ナ行は鼻音でラ行は鼻音ではないと、発声器官を図解して調音法を説明してもラチが明かない。南方系以外の出身者はニヤニヤして聞いている。しかしトレーニングをくり返したある日突然、その研修生がラリルレロ、オレンジジュースときれいに発音した。途端にどっとクラス中から拍手が沸いた。喜んだのは当の研修生よりもクラスメートだった。

 こんな雰囲気の中で私たちの授業は進んでいった。私たちの日本語教授法は直接法といって、媒介語を使わず(翻訳せず)日本語で日本語を教えるやり方である。いささか手間はかかるが、聞き、話す力を養うのに効果があり、現在、日本語教授法の主流を成しているものである。この方法は教室内に実生活の場面を作ったり、絵カードを見せたりして、その場面で使われる言葉の意味を直感的に理解させる。国籍の異なる人が混じっていても一つのクラスで教えることができるのが良いところである。抽象的な言葉はいささか厄介だが、状況を確定することで理解してもらえる。

「易しいことは難しく、難しいことは難しくない」というのが、私の外国語習得にあたっての感想であり、日本語を教えての実感である。学術論文や政治経済記事などは用語が硬く難解だが、文章に多義性はなく、事実認識に誤解を生ずることは少ない。それに反し日常会話の<くだけた表現>は時に反語としてのニュアンスを持つ曲者である。実質は何を言っているのかに注意しなければならない。<くだけた表現>の背景には異なる風土の生活習慣が潜んでいて、油断すると思わぬ誤解を引き起こすことがあるのである。

 例えば日本語初級レベルの学生はしばしば質問する。「いいです」「けっこうです」とは、いったいイエスなのかノーなのか?

 また彼等を悩ませたものに、日本語のカタカナ外来語があった。彼等は英語力があるから英語を綴るのに苦労はないが、それをカタカナで書くのが難しいのだった。カタカナ外来語を読み上げるとき、彼等にはまことに奇異に響くようだった。改めて私は日本式カタカナ発音がいかに原音とかけ離れているかを思い知らされた。

 しかし逆もまた真なりで、彼等は横文字の固有名詞を漢字で表記する。それを中国式四声アクセントで読まれると、その発音では私たちには通じにくかった。

 傑作として知られるのが有名な可口可楽(コカコーラ)、口にす可く楽しむ可しと意味を持たせており、百事可楽(ペプシコ-ラ)も同工異曲である。年配の人なら瑞典はスウェーデン、西班牙はスペイン、倫敦はロンドン、紐育はニューヨークと読める地名だが、人名となるとちょっとした判じものになる。貝多芬がベートーベン、柴可夫斯基がチャイコフスキー、海頓がハイドン、道比西がドビュッシ-である。

 日本語研修センターは土、日が休みである。花の金曜日の夜、研修生たちは忙中閑を求めてダンスパーティーを開いた。ふだんはお白粉けのない女医さんが、紅をさして現れることがあった。

 研修が終わるころには日本語の難関の一つ、助詞「は」と「が」の使い分けなどについて、鋭い質問が出るようになった。「私は日本人です」と「私が日本人です」の違いである。中級者でもしばしば間違えるもので、場合によって説明が難しく、これだけで一冊の本が出版されている。

 長春の町には馬車が走っていて、町角に馬面に斜線を引いた珍しい交通標識があった。道路によって馬車やロバ車の進入禁止区域があるためだった。長春では一度も犬の姿を見なかった。かわりに狗肉(犬肉)料理店が人気だった。町をウロウロしている犬はすぐ捕まって食われてしまうらしい。狂犬病予防の意味もあると聞いた。ある日宿舎のコックが黙っておいしい肉を出し、われわれが食べ終わった後で今日の料理はイヌだよと言った。

 長春では生鮮食料品が少なかったが、日本人専属の気のいいコック氏は変わりばえしない材料を工夫して、さまざまな料理を作ってくれた。

 長春の冬は零下30度にもなり、北側のドアにも二重窓にも厚い氷が張って開かなくなった。6月初旬まで、夜はしんしんと寒い。道行く人はまだ長袖だ。しかしそれからの季節が素晴らしい。晴れた日中は暑く感じても、空気が乾燥していて木蔭は涼しく、建物の中に入るとヒンヤリする。ちょうど高原のような気候だ。そして天気は変わりやすく、ひと雨来ると気温が下がった。

 石炭の煤煙と土埃で、夏も冬もシャツの襟は半日で真っ黒になった。洗濯機を回すのが日課になったが、しばしば断水した。不自由でありながら思い出せばキラキラと輝く、充実した懐かしい日々であった。 (藤田恒夫編集・季刊科学雑誌「ミクロスコピア」8巻3号 1991年秋季号)

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5.ブハラからサマルカンドへ


 1969年4月11日、ソビエト連邦ウズベク共和国の首都タシケントを発って、同ブハラ州の州都ブハラへ向かう。モスクワを起点に最新式の高性能ジェット機がブンブン飛び交う空のメイン・ストリートとは違って、この空路は裏道を散歩する気やすさで、買い物篭を提げて主婦が乗るといわれる田舎の飛行機だ。搭乗機は50人乗り、双発4枚プロペラの古びたアントーノフ24。横浜港を出て、ナホトカ、ハバロフスク、イルクーツクを経由し、ちょうど1週間目であった。

 見下ろすと青い水溜りがある。それは塩湖であり、茶色い水溜りは淡水湖である。高度数1000メートルの機上から見た大きなものにも、後に道を歩きながらほんのひとまたぎにした水溜りにも、青いものと茶色いものとがあるようであった。川は茶色い濁水である。流れは水位差が少ないためか、至るところ蛇行しながら三日月湖を残し、平行し交差する数条の流れはどれが本流ともきめられない。この辺りが西トルキスタンの中心、西欧から長途中国に通じていた交易路のほぼ中間点である。

 砂漠といっても、うねる砂丘や一面の砂原は少なく、いま目に映る中央アジア大乾燥地帯は荒蕪の草原である。シルクロード2000年の歴史をもつオアシス都市ブハラは、キジルクム砂漠の南、カラクム砂漠に位置している。

 ブハラ空港の風は肌寒く、空港バスの運転手はしっかりとオーバーを着込んでいた。ことしブハラの春は遅いといい史跡の町をよけい沈んだ気分にしているようだった。1時間あまりの飛行で時差1時間、ほとんど出発したときの刻限まで時計を戻す。距離感は抽象的で、理屈でなっとくするほかはない。

 観光バスは天然ガス開発とともにひらけた大通りを避け、旅行者の喜びそうな昔風の小路を選び、泥づくりの家並みに車体をこすりながら走った。もっとも面積わずか17平方キロの、この町全体が博物館だといわれている。どこへはいり込んでも同じだったかもしれない。だが太陽に照り映える回教寺院ドームの、深い青磁色を見る期待は裏切られ、あいにくの曇り空が色彩のコントラストを奪っていたのは残念だった。この地の観光シーズンが、暑くても盛夏、乾季に選ばれる理由の一つであろう。暗い空模様が逆にぴったりしていたのは、今世紀初頭まで、封建君主として絶対権力を握っていたというブハラ汗の居城である。拷問用の地下毒虫牢の格子に顔を寄せると、人形が横たわっているのが見え、うす気味がわるい。

 鬼気迫るのは、市南西部の防壁(ジンギス汗がはじめて打ち破ったといわれる)の辺り一面に、荒土にまみれて散乱する白骨である。いつの戦いとも、人骨、馬骨、駱駝骨とも知るよしはなかったが、弔いの碑一つ無く、見渡すかぎりの大地に突き刺さって、垂直に斜めに、白骨がのぞいている。とても「つわものどもの夢」どころの話ではない。しゃがんで手を伸ばせば、その位置を動かずに、骨はいくらでも土の中から出てくるのだ。命は助けるという言葉を信じ武器を捨てて降伏した数万の軍兵が、そのまま一か所に集められ大虐殺が行われたという話が残っている。

 別な話だが、胡とは漢以前に北方にいた匈奴(きょうど)の称だという。モンゴル世界帝国がこの地を支配したのは、匈奴が滅んでさらに後のことだ。だが胡が匈奴を意味する固有名詞から転化して、東夷、南蛮、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)というように、広くある地方の異人種を指すこともあったのではあるまいか。胡坐、胡椒、胡瓜、胡弓、胡桃など「胡」を冠した日本のことばはすぐ思いつく。こんなことをいい出したのは、いつどこの食卓にも、昔ながらの風情で「胡椒」壷があり、ウズベク人たちは昼日中チャイハナ(茶店)に緋毛氈を敷いて、悠然と「胡坐(あぐら)」をかき、砂糖を加えない緑茶を飲んでいたからである。胡椒など今はどこの国のレストランにも置いてあるであろうが、シルクと香辛料は黄金とその重さを競ったころがあった。胡族流転の歴史は忘れられても、胡の瓜、胡の桃は日本語に定着したままだ。

 その胡椒入れがおもしろい。陶器製で、頭はふつうに小穴があけてあるのだが、底から胡椒を入れるその底穴に蓋がない。あり合わせの紙をひねってねじ込むのである。だからいつも安定が悪く、食卓でぐらぐら揺れている。ブハラ・ホテルのものは、丼や茶呑み茶碗と同じ図柄で、コバルト顔料の濃い青で地を塗り、棉の花を白く描き残してあった。

 棉畑が続くあたりに変哲もない四辻があった。ガイドの説明がなければ、うっかり通り過ぎるところだった。そこが中国への道、サマルカンドへの道と分かれる黄金の道の分岐点であった。回教建築の美しさは、能動的に、具象的に語り掛けてくるが、道は耳をすまさなければなにも語りかけてこない。

 ところでどこへ行っても観光バスの周りには、物見高い土地の人々がわれわれを見物に群がった。ウズベク人の子供たちがタバコをねだることもあった。市の人口10万、その75%がウズベク人である。15歳の少年は、ウズベク語、タジク語を話し、日常のロシア語に不自由なく、学課として英語を習っていると語った。彼らの中にはもちろん異相もあるけれど、日本人に酷似した顔形もあって驚いた。東京の町中を連れて歩いても、だれも気づかないだろう。私の尻には幼いころ青い蒙古斑があった。3人の息子にも、それがある。いずれ消えるものだが、日本人のほとんどに見られるものなので、ふしぎはない。

 とはいうものの、ウズベク人たちから「お前はウズベクそっくりだ」といわれるたびに私はその蒙古斑を思い出した。「生きている化石」ということばがある。大昔に栄えていた生物が、現在も細々と生きながらえているとき使われる。肺魚類の仲間シーラカンスは6000万年前に死滅したと信じられていた。それが生きていることが戦後確認されたときこの名が与えられたという。蒙古斑がそれを思い出させた。過去のない現在はない。

 一昼夜のブハラ滞在の後サマルカンドへ向かう飛行機に乗り込むと、丸刈頭のタタール人青年が私の隣りに座った。体躯強大、私の太股がまさに彼の腕である。こんな男が馬に乗って白兵戦に現れたら、とうていかなうわけがない。ロシア語に残る「タタールの軛(くびき)」という成語は、彼らに支配された13、4世紀ごろ、いかにロシアが手を焼いたかを物語っている。巨大な蒸気機関車のようなタタールは「生きている化石」のようであった。

 サマルカンドでは同行の旅行団と別れ、気楽な旅らしくカメラを片手に、ひとり、ウズベク居住区にはいり込んだ。細い小路に、白い土塀が長く続いていた。子供たちは地面に白墨で輪を描き、石けりをしていた。どの家にも小庭があり、葡萄の樹があった。塀ごしに桃の花が咲いていた。シャッターを切ろうとすると、子供たちは素早くニコニコしながら、直立不動の姿勢になってしまう。中になぜか泣く子がいる。その子のごきげんをとりながら、

   泣く子の頭なでて早春の地の白さ

の句が思い出された。昭和初年に先考菁々がつくったものである。頭をなでられていた子は、もちろん私にほかならない。 (皆吉爽雨主宰・月刊[雪解] 1969年9月号)

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6.ベルギーの小さな町デュルビイ

* デュルビィのホテル
* ゆとりある休暇について
* ワインと晩餐


* デュルビィのホテル


 デュルビィは南部ベルギー、リエージュの南35キロにあり、ウルス川沿いの丘の麓、人口わずか300人余のリゾートの町だ。町の経済は外来者が落とすドルやフランに依存している。それだけの魅力がこの町にあり、施設や商店は主として外来者の便宜のために存在する。

 ベルギーの自然景観は、南北で大きく二つに分かれる。ご存じ少年物語「フランダ-スの犬」の舞台、アントワ-プがある北部フランダ-ス地方は、低く平坦、かつ単調な平原が広がっている。南部アルデンヌ地方はガラリと様子が変わって緑深い複雑な丘陵地帯。森と渓谷は狩猟と釣りの舞台となり、周囲は西ドイツとルクセンブルク大公国、フランス・シャンパ-ニュ地方に囲まれている。

 三つのシャトーを訪れた日はデュルビュイ泊まりになった。午後4時半、夕陽に映えるデュルビュイ城が見え始めると、私たちはバスを止めて左右の畑に散り、思い思いにカメラを構えた。私は一瞬、素晴らしい色彩を捉えたかに思ったが、帰国して現像してみると平凡で詰まらぬ夕景に過ぎなかった。

 われわれ一行は20人に満たない小人数だったが、この町では一つのホテルに全員は入れず3か所に分泊することになった。手狭で居心地が悪そうなホテルもあったが私は8人の仲間とともに瀟洒な「ホテル・カ-ディナル」に入ることができた。ホテルは静かな石畳の路地の奥にあった。

 3階の屋根裏部屋の見晴らしがいい。広いベランダから目の前に教会の尖塔が見える。ベランダにはシャワーがある。シャワーは周囲から死角になっていて大いに気に入った。写真家の島内英佑氏と私とには、1階のペトラスという2DKが割り振られた。

 ペトラスは取っつきの部屋に暖炉、ソファベッド、テレビがあり、次の間にキッチンとひと通りの炊事用具、コーヒーメーカー、冷蔵庫。冷蔵庫にはワイン、ビールとミネラルウォーター。それに4人掛けの食卓、食卓の上に蝋燭立て、飴玉が入ったガラス鉢。ボーイやメードは一度も姿を見せないが、準備万端整っていて何不足ない。すべて自由気ままに行動できる。浴室とトイレは別になっている。

 いちばん奥が主寝室で、大きなダブルベッドと豪華な衣装箪笥がある。だが中年男2人がダブルベッドに添い寝するのはどうも勝手が悪い。居間のソファをベッドに組み直し、ジャンケンで主寝室の権利を決めた。清潔なタオルの寝巻きが用意されていたのは思いがけないもてなしだった。

 開け放した窓からフランス語の会話と鳥のさえずりが聞こえてくる。夕暮れがせまり、教会の晩鐘が鳴り始めた。時計を見ると正6時である。澄んだ音が長い余韻を引いて町に拡がる。風見鶏のシルエットの向こうで飛行機雲が西の空へ延びていく。上へ」

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* ゆとりある休暇について


 のんびり一周しても30分という谷あいの町デュルビュイに大小のレストランがあり、グルメの味覚を競っている。人口の割にレストランが多いのは、当地の伝統的なアルデンヌ料理を目当てに、内外から食道楽が集まって来るからだ。アルデンヌ地方は森の野鳥や小動物、急流の川魚を材とした野趣あふれる料理で知られている。そしてもちろん古城がある。かつてデュルビュイ伯爵が所有し、後にルクセンブルグ伯爵が引き継いだ古城だなど聞くと、何が何だかちっとも分からないが奥ゆかしい感じがする。

 ほかに見るほどのものがあるわけではない。人々はおいしい食事を楽しみ、サイクリングやアーチェリー、射撃、ミニゴルフをしたり、近くのウルス川でカヤック漕ぎなどをして休暇を過ごす。中国語に「観光」と「渡假」という2つの言葉がある。観光はいわゆる物見遊山で忙しい感じがするが、渡假には静かな語感がある。直訳すれば假(休暇)を渡(過ごす)ことだ。1か所に滞在して悠々たる日々を楽しみ、疲れを癒し、リフレッシュして、再び元の生活に戻るという気分がこの言葉にある。

 日本人が旅行するとき、この区別がはっきりしない。日本人は小遣いも余暇時間も増えたのに、まだ仕事をするときと同じテンポで遊んでしまうからだ。

ついでだが中国語の「調剤」という言葉には、薬の調剤のほか「使生活上的苦楽平均」(ストレスを解消し生活を調える)意味がある。従って渡假とは、調剤を目的とする旅だということもできる。上へ」

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* ワインと晩餐

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 浴後の身体に夜風が寒い。作家の桜井友紀さんは黒地に赤い水玉のドレス、緑のスカーフに黒マント、ハイビスカスの耳飾りで現れた。晩餐会のために皆さんドレスを選んでいらっしゃる。着たきり雀の私はネクタイを替えただけだがグルメへの期待でハイな気分。なにしろブリュッセルの白鳥の館、ブル-ジュの 't Bourgoensche Cruyce と並んで、ベルギーを代表する高級レストラン「ル・サングリエ・デザルデンヌ」で「ベルギー33人シェフの会」のモ-リス・カ-ディナル会長の料理を試みるのである。

 まず地下へ降りてワイン蔵を見学した。これがすごい。私たち参加者はそれぞれ生まれた年に造られたワインを見つけて声を上げる。530種3万5000本のストックがあるという。1845年のマディラがあった。ペリ-の浦賀来航8年前に造られた酒である。

 ロマネ・コンティの棚がある。「ロマネ・コンティは、グレートワインですよ。でもこんな高い酒を飲むのはアメリカ人と日本人、金持ちだけです。今夜はレッテルを飲まずに酒を飲んでくださいね」とソムリエがにやりと笑う。

 昨年世を去った開高健氏が「ロマネ・コンティ一九三五年」という短編を書いている。その一節に「こいつが日本へ入ってきてホテルのワイン・リストにでていたら、何もいわずに眼をつむることだね。目玉が眼鏡をつけたままでとびだしちゃうんじゃないかな」。

 この小説は期待に固唾を飲んで35年もののコルクを開けると、なんと中身はすっかり腰が抜けていたという話である。ワインは開栓してみないと保存状態が分からない。

 ホテル・オ-クラではリストにはないが、注文があれば71年ものを出す。お値段は25万円以上とか。

 日本橋の高島屋にロマネ・コンティが4種類置いてある。1986年ものが19万円、1984年が17万円、81年と72年がいずれも13万円である。では86年の方が品質がいいのか。

「いいえワインとはそういうものではございません。もし86年をお買い求めでしたらすぐには飲めません。5年いや10年寝かせていただきませんと。いまお飲みになるのでしたら、その中では72年がよろしいかと思います」

 と、ホテル・オ-クラのソムリエは言う。安価な新酒のフレッシュな味を楽しむボジョレなどとは、もともとタイプが違うワインなのだ。

 前室で食前酒を振る舞われる。この部屋には陶磁器、カットグラスなど土産物が並べてある。菓子皿の正札は2万4900フラン(約10万円)、私は田園と人物が描かれた直径7センチの蓋物の陶器(1200円)を買った。アペリチフのつまみは、オリーブ、ピーナツ、赤カブ二十日大根。赤カブはさっくりしていて柔らかい。日本のものとは種類が違うようだ。

 ダイニング・ルームで晩餐が始まった。温かさと香りの名物料理「マスの巣ごもり」やフォアグラなど運ばれる。マスはちょっと塩がきつい。金髪美女ウエートレス2人のサービスぶりは見事で、微塵の手落ちもない。小声で相談しながらテーブルを見回し進行状況に細かく気を配る。

 口直しの皿は海の匂いがする。これは香草と川蝦のクリームスープですよ、と誰かが断定する。ワインはボルドーのシャトー・マティノン1985年。そして強烈きわまる臭気のチーズ。照明が絞られ、あたりがぼうっと暗くなった。酒に酔い料理に酔い、話の切れ目なく夜が更けていった。(月刊「東京消防」 1990年4月号)上へ」       

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7.郷土の旅・俵屋のあめ

      ふるさとよ母よ夏雲は高く候(そろ)   菁々


 幼時の記憶にまつわる金沢の菓子が二つある。森八の千歳と、俵屋の飴と。

 千歳は、上品な甘味の餡を求肥にくるみ、粉砂糖をかけて薄い和紙で包んだ小ぶりの菓子である。口に含むと求肥と餡がねっとりと相性よく引き合い、後味よく高雅である。一と口で食べられるものを子供心につい惜しんで、二た口にも三口にも食べたものだった。

 尺四方の木箱を幾重にも重ねた風呂敷包みを背中にしょって、キリリと角帯しめた森八の御用聞きが、週に1度か10日に1度、金沢の町々を回って歩く姿が見られたのは昭和初年の頃までであったという。使い走りの丁稚(でっち)などでなく、中番頭ぐらいの年配で、ひと通りの世辞と時候のあいさつを心得ていた。

 木箱の蓋を取ればズラリと並ぶ菓子の見本である。梅、桜の花、菊、松の葉と彩りあざやかな型抜きの月々の干菓子、新年の福梅、桜餅、柏餅など季節の生菓子。御所落雁「長生殿」「千歳」「黒羊羹」は三絶といって誰でも知っているので見本はない。茶の盛んな土地柄、茶菓子を切らすことができない家庭を選んで御用聞きが訪れるのである。森八がくるということが、家々のささやかな自慢でもあった。

 千変万化の技巧で作られた和菓子のなまめかしさは、手に取れば忽ち胃の腑に納まるものながら、一瞬の美が人の心を和ませる。

 さて俵屋の飴である。わが国で飴そのものの歴史は平安時代に遡り、既に商品として扱われていたとものの本にある。飴も菓子の一種ではあるが、俵屋の飴は何のてらいも装飾もなく実用一点張りで、古い時代の“原初の飴”を思わせるような武骨と素朴、むしろ野暮ったさが身上である。

 俵屋の飴も、金沢の人々の生活の中で伝統を固守してきた。菓子というより食料品として、加賀料理の川魚の飴だきを始め、この地方の料理に飴を使う習慣が販路をひろげ、家庭ではたとえばラッキョウやカラシナスを漬けるとき、ニシンやフナの素焼きを煮含めるときなどに、俵屋の飴を欠かすことができなかった。

「仕上がりのふくよかな艶は俵屋の飴に限る。よそのアメではらちあかん」とよくいわれたものである。

 ほかに、俵屋の飴の消化吸収のよさと滋養強壮の価値がひろく知られていて、暑気当りで体が弱ったとき、腹下しや子供の病気のとき、人々はよく俵屋へ走った。

 というのもいわれがある。天保元年(1830年)5月創業の俵屋の飴は、初代太次兵衛の工夫の産物だった。当時のこと、たまたま乳が出ないばかりに死なせてしまった赤ん坊の亡骸を抱きしめ、嘆き悲しんでいる若い母親の姿を見かけ、太次兵衛は心を動かされた。以来、何とか母乳代わりに赤ん坊に与え得る飴を作り出したい、との思いに取りつかれ、日夜苦心の末、ついに製造に成功したものだという。

 俵屋には「賭け事と商売の無理押し、為すべからず」という訓えと共に、この創業秘話が語りつがれている。

 筆者は幼年の日、重い麻疹にかかった。夜中に痰がからんで息ができなくなったとき、徹夜の付き添い婦はあわてずに、枕頭のじろ飴を箸にくるんで、喉に押し込んでくれた。飴を嚥下した途端に痰が切れ、危機を脱した。遠くかつ鮮烈な記憶である。

 当主の俵外代吉氏は数えて5代目である。外代吉氏に昨年、私は週刊サンケイで連載していた「老舗のおやじ」という企画にご登場をお願いするため、久濶の郷里を訪れた。

 金沢駅から15分、旧東廓から7、8分の浅野川小橋通りにある俵屋の店構えは、外観は小じんまりとしているが奥行きがあり、敷地は500坪と広く、古びた家屋は江戸末期の商家そのままのたたずまいを残している。親しさと、懐かしさに誘われる思いがする。純白の帆布地に墨書した「俵屋あめ」の文字が目にしみるばかりだ。

 同じ菓子類を扱いながら尾張町に偉容を誇る森八ビルの整い、とりすました近代店舗と比べるとき、俵屋の庶民性はまさに扱う商品の性格を反映している。

 当主は静かな語り口で、最近はよく若い娘さんたちが観光旅行のついでに買いにきてくれること、その人たちが写真を撮るらしいので店を休む日曜日にものれんだけは出しておくこと、おれは飴屋のおやじなんだと思い込んで、昔ながらの飴を昔のまんまの作り方で作っていること、建物も経営も会社めいたものにはしたくないことなどを語った。

 製品はただ一つ、飴だけである。じろじろした軟らかい「じろ飴」と、桶に固めて突き起こす「おこし飴」と。2種あるが水分の多少によって堅さを変えるだけである。

 1年中、朝は4時に起きる。3時間仕込みをして、6時間発酵させる。一切添加物のない自然食品であるから、麦芽と米を蒸し、発酵させて煮詰めるだけの作業である。夜は帳つけ、あくる日の準備をすると11時になる。飴づくりの所要時間は決まっているので、朝遅く起きればそれだけ夜が遅くなる。どうあがいても寝る時間はふえない。毎日毎日飴を作らなければならないから、いまだかつて旅行をしたことがない。

「ほんとうの飴を作ろうと思ったら、ごまかしがきかないんですね。だから飴だけは、大企業の大量生産にはなじまないんです」

 敗戦後、世間の食生活は一変してしまったが、しかし昔ながらの飴を求める人がいる限り、外代吉氏は地道にこの商売を続けたいという。

「なくなるものなら、もうとっくになくなっているはずや。それが今まで続いているんやから、何とかなるやろ。わし一人でもやるわ。そんな気持ちで続けてきたんですわ」

 俵屋の作業場で飴作りを拝見した。複雑なプロセスはないが、原料の吟味、配合、火加減の微妙は習練のカンに頼らねばならない。真似のできぬところなのであろう。「教えて教えられるものじゃない。習うよりは見て覚え、自分で工夫をせねば」。九谷焼なんぞも同じじゃないですか、とも。

 伝統のノウハウというものは、理屈や方程式にはなり難いらしい。

 いくつもの大釜と飴桶が並んでいる。アメの匂いが立ちこめ、働いている人は10人。今は住み込みではないが皆年期を重ねている。14、5歳の時から、兵役をはさんで働き続けている人もいる。

 これからの夏場は忙しい。保健のために苦い生薬やマムシに混ぜて用いる人が多くなるからだという。冬場にふえるのは菓子原料の需要である。冒頭、引き合いに出した寛永2年創業の森八からは、百数十年にもわたって注文が続いている。俵屋は森八の専属として、今も飴を納めているのだ。地味と粋、二つの老舗の連綿たる取引がおもしろい。

 出来たての「じろ飴」と「おこし飴」を味わってみる。ふんわり、しつこくない甘さ。科学的に分析すれば単なる麦芽糖でありながら、工場製造の水飴とは全く風味が異なるのである。これをしも麦芽糖というならば、スコッチウイスキーはエチールアルコールに過ぎない。

 折からの雨もよいにもかかわらず、観光客らしい女性グループが店先に現れた。壷入りの「じろ飴」はあらかじめ分量を計って並べられているが、「おこし飴」は注文を受けただけ、その場でおこして竹の皮に包む。板の間に置いた盥のような飴桶から木槌とカナテコで、こんこんと軽い音を響かせて飴が起こされていく。
 
 俵屋を辞すると浅野川が近い。佃煮やカラ揚げにして賞味される川魚のゴリは浅野川の名産である。ゴリ押しということばはその漁法から生まれている。浅野川天神橋を渡れば市民の自然公園、卯辰山である。

 林間に、秋声、鏡花、ほか60余の文学碑が点在する。うち東山廟所には、臼田亜浪、小松砂丘、青柳菁々がそれぞれ“雲”を詠んだ三雲句碑が建つ。先考菁々の句、

   ふるさとよ母よ夏雲は高く候

 の筆跡に触れて、私は金沢を後にした。  

   (醸造報知社・季刊「楽味」1977年夏季号)

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8.言葉の旅

* 気になる言葉―誤用と慣れ―
* 平成日本語の憂鬱


* 気になる言葉―誤用と慣れ―


 立教中学2年3組の教室で、私の担任だった国語教師の花房正雄先生が、これは間違いやすいよと指摘した単語がある。それは独擅場という単語だった。ドクセンジョウと読むのが正しく、間違っても独壇場などと書いてはならないと教えられた。

 それから50年、いま新潮国語辞典(新潮社)と広辞苑(岩波書店)を引いてみる。両辞典とも、独壇場は独擅場の誤りと明記した上で、見出し語として両者とも採録している。ドクダンジョウは誤りであるが市民権を得た存在となり、一方は出典は正しいのに死語となった。ワープロで打ってもドクセンジョウは出てこない。

 擅には「ほしいままにする」という字釈がある。それで独擅ないし独擅場という語が成り立つが、独壇と書いては解釈不能となる。だが昨今はカラオケブ-ム、マイクを奪い合って喧嘩が起きることもあるそうだ。ステージを独占するから独壇場というのだと解釈する人がいてもおかしくない。

 新聞、雑誌、ラジオ、テレビには、故意の誤用で人目を引こうとするCM、言葉遊び、外来語風和製カタカナ語、新種の流行語が氾濫している。日本語学校の外国人留学生にとっては、どれが正しい表現でどれが語呂合わせかなにか判断がつき難いことがある。日本の若者たちも同じ環境で育っている。昭和ヒトケタ時代の人間と言語感覚が違うのは当然と言えるだろう。

 4月に新学期が始まって、昨年に引き続いてビジネス秘書専門学校で実務文章講座を受け持つことになった。学期初めにはとりあえず誤字退治をするのが私の恒例である。新入生の誤字には次のようなものがある。

 構義または講議(今年は16%がこう書いた) 練絡 常式(識) 常織 活役(躍) 会義 複習 能度 印像ずっと似前 師命(指名)されて 成積 重用な問題 文字が偉う(違う) 第2貢(ペ-ジ) など

 むずかしい字が書けないのではない。ごく普通の字が書けない。毎週書かせる作文の中に、こういう誤字が頻出する。小学校以来、偏と旁の意味を知らずに漢字を書いてきたものもいるらしい。いい加減な当て字が多い。女子大で教鞭を取っている友人に聞いてみたら、そこでも新入生は似たり寄ったりの状況だそうだ。

 昨年の経験から、今年は誤字を指摘するだけにとどめ、訂正はしないことにした。直してやっても同じ誤字を何度も書く。誤字が定着している。無駄である。それより学生自身に辞書を引かせ、正しい文字に訂正させ、正誤表を提出させることにした。

 巷で気になる言い方に「先を越す」がある。テレビで得々として“サキを越す”と言うタレントがいると、どうも気色が悪い。いつから“サキを越す”になったのだろうか。手もとの新潮国語辞典(昭和52年4月改訂)を引いてみる。見出し語にあるのは「センを越す」と「センを取る」だけで“サキを越す”はない。私も“サキを越す”に市民権をやりたくない。

 辞書にはものを読むときの辞書と、ものを書くときの辞書とがある。ものを書くときの辞書「現代国語表記辞典」(三省堂、武部良明編、1985年)を引いてみても「センを越す」はあるが“サキを越す”は出ていない。

 ところが広辞苑には“サキを越す”が見出し語として採録されている。そして“サキを越す”が誤りであるという説明はない。

 最初“サキを越す”は、広辞苑第4版の帯に書かれている「最大規模の大改訂、新収1万5千項目」の新収項目の一つかと思った。ところが第3版(昭和58年12月発行)を見ると、既にこの言葉が採録されている。さらに遡って第2版(昭和44年5月)を見ると、ここには“サキを越す”は見当らない。してみると広辞苑が“サキを越す”を認知したのは、ほぼ10年前のことになる。

 因みに、広辞苑の初版(昭和30年)には「スモッグ」という言葉がなかったそうだ。採録されたのは第2版からだという。広辞苑編者の新村出氏の歌集に、こんな一首があると新聞の豆知識で知った。

  広辞苑ひもとき見るにスモッグと

     いう語なかりき入るべきものを

 新収1万5千項目の“新収”という単語、これが当の広辞苑に載っていないと、江国滋氏が月刊「図書」(岩波書店、1992年4月号)で指摘している。なるほど、引いてみると出ていない。辞書屋さんが自分の辞書にない造語を使ってしまったことになる。灯台もと暗し。

「他人事」をタニンゴトと言う誤用もかなり普及して実績を上げている。幸いタニンゴトを見出し語に取り上げている辞書はないようだが、全くヒトゴトではない。

 教室で気付いたことだが、最近の学生は“○○する”という新しい言い回しで、実にさまざまなことを表現してしまう。“幸せ"したり、“リクル-ト”したりする。明らかに広告コピーの影響で、その影響が在来の語法まで狂わせる。

「今日は文書実務の講義をした」「今日は報告書の書き方の授業をした」などと作文に書いてくる。これでは学生が講義を行ったことになる。冗談じゃない。講義をしたのは私だよ、君がしたんじゃない。だから講義を受けたとか、聞いたとか書きなさい、と教えなければならない。主語を書き落としたのかとも考えたが、どうもそうではないようだ。

 彼女らは“幸せ”すると同じ語感で"授業"する、と言っているのだ。彼女らの語法では授業を受けることも「"授業"をする」という行動なのだ。すなわち、“授業をやった”のであり“講義をやった”のである。

 デパートの食料品売場をぶらつくことがある。すると売り子から“どうぞご利用ください”と声を掛けられる。この言葉が私には気になる。品物を買えというのなら、「どうぞお買い求めください」と言えばいい。試食してみろなら、「おひとつお試しください」でいいではないか。

 来客に茶菓を出して“どうぞご利用ください”と言うか、と腹が立つ。

 食べることを利用するとは言わない。買うことも利用するとは言わない。冷蔵庫を利用して物を保存したり、ワープロを利用して手紙を書いたりはするが、鉛筆を“利用して”原稿を書くことは私はない。

 人を利用すると言ったらいい意味にはならないだろう。「利用する」という言葉は使い方によって一種のまがまがしさを伴う。ある用途のものを二義的な用途に使うことも「利用する」という。私はこの言葉に慣れることができない。

“がんばって!”という言葉も好きではない。この言葉は日夜、洪水のように押し寄せる。そこで私は勝手ながら「努力する」の意味では“がんばる”を使わないことにした。私が“がんばる"と言うのは、次のようなときだけである。

 汚職大臣が司直に告発されてなお議員を辞職しないとき、満員電車の出入口に若者が立ちふさがって、ドアが開いても人を通そうとしないとき。

「あらゆる品を取り揃え」の「あらゆる」も、気になる。インテリアショップの広告に、「猫をテーマのあらゆるインテリアが揃っています」と書いてあったが、およそ“あらゆる”物を取り揃えている店などあるわけがない。

 事実はせいぜい様々なものがあるに過ぎないではないか。どこかの国の大臣発言と、万病に効くオマジナイは、最大級の形容詞を使うことで一層ウサン臭さを増す。

 某日、「冤罪防止にトラの巻 日弁連無罪判決事例集を刊行」という見出しの新聞記事を読んでいたら、奇妙な表記ミスがあった。

「(前略)このうち、とくに参考になりそうな14件については、事件の発生から取り調べ状況、法廷のやりとり、判決理由までを約7千字で紹介。『捜査段階での自白には信用性がない』と立証していく過程や、法廷戦術に行き詰まるような緊迫した場面も明らかにし、論評を加えることになっている」(1992年5月8日朝日新聞夕刊)

 法廷での「行き詰まった場面」を紹介したって役には立つまい。この文脈からは明らかに法廷の「息詰まるような場面」の誤りと思われる。2日後の朝刊に「読者と新聞(編集局から)ワープロの落とし穴をふさぐ」というコラムが掲載された。いわく次のとおり。

 「お手元にある朝日新聞の記事は大半がワープロで書かれていますが、避けられないのが『変換ミス』です。筆者ばかりか、デスクの目もくぐり抜けてしまうことがよくあります。それをチェックするのも最終関門の校閲部の役割です。

 立山連邦(連峰)、直系12メートル(直径)2隻に分譲して(分乗)、失言とブナ林(湿原)。

 かっこ内が正しい。これらはすぐに気づきますが、われわれの網を通り抜けようとするものもあります。

 当時国(当事国)、多種多用(多種多様)、決定機関(期間)、自分自信(自身)、計上利益(経常)、同植物のガイド(動植物)。

 前後の文章につられて、うっかり見過ごしかねないケースです。ワープロ時代がもたらした特有の落とし穴といえます。」(以下略)

 「校正(後生)畏る可し」とは、印刷出版関係者の間で言い古された駄洒落である。誤植訂正という仕事は落ち葉を拾うが如く、完璧を期しがたいものであることはよく承知しているが、このコラムはのっけから、記者の不注意による変換ミスを避けられない前提として書かれている。読者に対するアピールとしては気になる。

 コラムは校閲部の仕事を説明しているだけで、ミスの残る紙面を止むを得ず読者のお目にかけることについては恐縮していない。

 多種多用(多種多様)や自分自信(自身)が、うっかり見過ごしかねないケースであるかどうかは人によって意見が分かれるかもしれない。

 その後に続くのは、記者が犯したミスを発見したという校閲部の手柄話である。

 それらのことをあげつらうつもりはない。ワープロ時代の印刷物に、こういう新しい陥穽が生じたのは事実である。変換ミスはワープロ普及につれて、ますます増えていくだろう。

 変換畏る可し。汚職事件が“お食事券”になったり、映画「エデンの東」の名監督の名前が“襟垢山”に、「高原の岩清水」が“鰯見ず”になったりすれば、はなはだ困る。

 変換ミスは記者本人の原稿作成段階での不注意である。組み版段階で発生する誤植とは訳が違う。校閲部に尻拭いしてもらうより、最初から完全な原稿を出稿すべきものであろう。とはいうものの、時間に追われれば言うは易く行うに難いこと、私自身、身につまされる思いがする。(月刊「東京消防」 1990年4月号)上へ」

地球ウォーカーへ』

(藤田恒夫編集・季刊科学雑誌「ミクロスコピア」9巻3号 1992年秋季号)  

* 平成日本語の憂鬱


「千円からお預かりします」

 以前はなかったこんな奇妙な言い回しを聞くと私はちょっと“鬱"になる。

 近くの郵便局で小包を発送するとき、千円札を出した。受け取った若い女子局員がこう言った。不思議な言い方だ。千円から何を預かろうというのだろう。代金ならば言わずもがなのことで、それなら預かるというより、代金をいただきますと言うほうが自然だろう。

 従来は金を受け取るときに「千円お預かりします」と言うのが普通だった。この言葉には客が出した札が他の種類の札でないことを相互に確認する意味があった。

 思うに彼女は「千円お預かりします」ということと「お預かりした千円の中から代金をいただきます」ということの二つを一度に言おうとして、「千円からお預かりします」と言ったらしい。

 気をつけて聞いていると、デパートでも商店でもこの言い方が横行している。新しいシャレた言い方だという錯覚があるのかもしれない。

 少額の金は預からず、1万円以上を預かる預金が信託銀行などにあった。これなら「1万円からお預かりします(それ以下では預かりません)」と言っておかしくない。

 私の憂鬱のもう一つは「日本語の揺れ」に伴って、世代間地域間の共通認識が崩れ、言葉のニュアンスに微妙な違いが生じていることだ。例えばアゲルとヤルの使い分けである。

 私の年代では赤ん坊にミルクをやったり、小鳥に餌をやったりはするが、上げるとは言わない。上げるという言葉は別な状況で使う。ところが小鳥に餌をアゲルという人が出てきた。古いことではない。そして急速にアゲルという人が多数派になり、ヤルという人が少数派になってしまった。アゲルとヤルとの感覚には世代間格差があって、比較的若い世代のアゲル派と私の年代のヤル派との間で対立が生じている。

 この使い方を観察していると、最近もう一つの用法があるのに気付いた。

 私は生来カナヅチである。近年水泳教室に通い出し、この春ようやく50メートル泳げるようになった。私の水泳教室で、26歳の女性インストラクターがしばしばこう言うのである。「頭が上がれば足が下がります。足が下がらないよう、頭を沈めてアゲテください。そして足はしっかり蹴り下げてアゲテください」

 この場合のアゲテはなくもがなの言葉なのだが、どうして彼女はアゲテと言いたくなるのだろう。彼女は「頭が下がらないよう足を沈めなさい」という指示を、より丁寧に言いたかったのではなかろうか、と私は思う。

 巷の駄洒落や語呂合わせの中には人目を引くために、故意に許容範囲を越えて日本語の語法を踏み外した表現がある。それは私には自堕落に思われる。さまざまな年代の人々が、これら自堕落な日本語に毒されることはないだろうか。

 今年(1993年)1月3日の新聞に某住宅建設会社の1ページ広告が載った。それには空間や間取りが「我が間ま(わがまま)」に設計でき、「健康しよう 自然しよう美容しよう 清潔しよう グルメしよう 学習しよう 日本しよう 親孝行しよう....など多彩なテーマの中から、ご家族のスタイルに合った設備や家具が選べます」と書いてある。

 親孝行する、学習する、は問題ないが、見逃せないのは、日本する、グルメする、自然するなどの動詞である。通常は動詞に転用できない名詞を故意に動詞化しているのだ。

 よく似た例がもう一つあった。NHKテレビのシェープアップ体操の時間に耳に入ってきたものである。女性インストラクターがしゃべった言葉だ(2月12日所見)。

 彼女は「爪先きポイントをしながら..」と言ったり「手の動きをしながら..」と言ったりする。どうして「手を動かしながら..」と言わないのだろう。日本する、自然すると同様、「する動詞」の特殊な用例として記憶に残った。

 四字成句として意味が定着している漢語もまた格好の言葉遊びの標的となる。

 今年3月13日の紙面で洗濯機の新聞広告に「洗差万別」という大見出しがつけられているのを発見した。この洗濯機には新・愛妻センサーという機能があって、家庭によって洗差万別な洗濯事情を奥様に代わって見分けて洗うのだそうだ。

 このように「洗差万別」などと使われる漢字は漢字ではなくて“感字”というのだそうである。

 現代日本語は、言葉固有の意味や機能を越えて自由に造型されるようになった。こういう風潮を嫌悪する人もいる。私も度を過ぎた駄洒落はいい加減にしろと言いたくなるほうだが、次の投書はプロ野球記事の見出しの「た“野茂”しい」という表現にいちゃもんをつけた人の意見である。

「ユーモアあふれるキャッチフレーズは読者を引きつけ、楽しませてくれる。多少変則的な表現も、たまには新鮮な魅力となろう。だが文章の品位と使用頻度にはおのずから限界があるはずである。独りよがりでセンスのない駄洒落を、これでもかこれでもかと出されては、いい迷惑である」(「読者の紙面批評」毎日新聞1993年3月27日)。ごもっともな意見である。投書者、上岡積氏の年齢は56歳であった。

 自由気ままな表現がはびこる反面、若い人の語彙と識字率は貧弱になる一方である。近未来の日本語はカタカナ語を含めて、いったいどんな辞書を持つ言語に変貌していくのだろうか。

 ある種の現象が“乱れ"なのか“変化"なのか、それを見極めることは難しい。泡沫のように消えていくものか、あるいは永く残るものなのか。現状におけるさまざまな「日本語の揺れ」は落ち着くところに落ち着くまで、しばらく時間をかけて見守らなければならないだろう。

 敬語が上手に使えないという人が増えている。それにもかかわらず敬語の使い方は過剰になる傾向がある。というのも閉塞的社会状況の対人関係の中で、とにかく形式的敬意だけは十分に表しておこう、丁寧に奉ってさえおけば無難だと、みんながやみくもに考えるからかもしれない。

 変な敬語の一例として、朝日新聞にこんな投稿が載った(1993年4月6日、筆者は山本洋子氏)。「お名前様も敬語?」という表題である。デパートで配達を頼んだら「ここへお客様のお名前様をお書きください」と言われたという話である。

 朝日新聞で特集「いま東京語は」の第1部連載が始まったのは昨年10月8日であった。連載は9回に及び、サ行発音の変形、ラ抜き言葉、方言、標準語とバラツキ、などが扱われた。

 東京語の中に過剰な敬語が増えているという指摘を読んだのは今年3月11日、特集「いま東京語は」の第2部の中である。やはり9回にわたった連載記事で「敬語」「あいさつ」「呼称」などが扱われた。

 過剰な敬語の例に、ここにも「お名前様」が登場していた。ほかに「....させていただく」という表現。例えば「お値段はお安くさせていただきます」「本日は休業させていただきます」など、デパートやホテルでは半ば慣用になった接客用語も槍玉に挙げられていた。

 この第1部と第2部の間には随時、テーマ討論「日本語の乱れ」が掲載された。これらの紙面は読者の関心を反映し、日本語が揺れている現状について賛否両論の投書が集められた。それらの投書は、現代日本語の中に人々が疑問に思う語法が少なからず存在していることを物語っていた。

 昨年10月、東京・品川区役所が公文書作成マニュアルを作った。45のチェックポイントを設けてお役所文書からの脱皮を目指し、分かり易い公文書を書こうという試みである。

 同区役所ではこれ以前に「ことばの見直し委員会」を作り「ことばの見直しシンポジウム」を行ってきた。マニュアルはその成果である。

 マニュアルの中に、過剰な敬語に気をつけようという注意がある。取り上げられた用例は次のようなものである。

 

二重の敬語:  お掛けになられる → お掛けになる  おおげさなへりくだり  お答えさせていただきます → お答えします

「です」「ます」の使い過ぎ:  よく検討しまして → よく検討して  

尊敬語と謙譲語の混乱:  ご参加してください → ご参加ください  部長の申されることは → おっしゃることは

美化語の使い過ぎ:  おコーヒー → コーヒー

 

 思いつくままに日頃の“鬱"を書き並べてしまった。「平成日本語の憂鬱」とタイトルを付けたが、ここに挙げたものの中には必ずしも平成以後に普及したとは限らず、昭和時代から使われていたものがあるかもしれない。

 悪貨は良貨を駆逐するというが、世にはびこる言葉の中には何か鼻白むような言葉がある。

「~的」という言葉の安易な使い方も問題である。時間的には間に合うとか、気持ち的には分かるとか嬉しいとか....。

 テレビのせっかちな口調を真似て、会話の中に意味のない間投詞を挟んだり、短い時間により多くの単語を詰め込んで早口でしゃべる人がいる。彼等の舌足らずで饒舌な日本語を聞いていると、私は気持ち的に焦って喉が渇いてくる。 (藤田恒夫編集・季刊科学雑誌「ミクロスコピア」10巻3号 1993年秋季号用)

地球ウォーカーへ』