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「産婆の歴史」
~ 高祖母・古矢嘉満子について(その1)


産婆さんは、明治元年の太政官布達により、その地位が法的に明らかにされたが、正式には、その後明治7年に免状制となった。私の祖母の祖母(つまり高祖母)の古矢嘉満子 は、内務省免許第10号の「産婆」である。日本で10人目の産婆さんということになる。

明治15年発行の『内務省免許医師 薬舗 産婆 一覧』という本に、免状番号10号として記載されている。その私のお祖母さんのお祖母さんは、公爵 徳川慶喜家のお産をやったり、後藤新平の家のお産をやったりした。

古矢嘉満子の孫、つまり私のお祖母さんは子供の頃、徳川家にはよく遊びに行き令嬢喜久子さまと遊んだ。祖母は須磨という名前なのだが、喜久子さまから、「須磨や、須磨や、こっちにきてお菓子をお食べ」等と言われたりしたとのこと。喜久子さまは後に高松宮妃 高松宮喜久子 様となられた方。後年、宮様が目の前においでになったことがあったとのことだったので、名乗って、昔のことを話してみたか?と聞いたら、何も話さなかったとのこと。話をすれば、懐かしんでくれただろうに、と思う。

> 後藤新平の家に出入りした理由は、多少推測がつく。当時、両国に住んでいたカマさんは、隣が煎餅屋、そこの息子が宮尾舜治 という人で、一高時代には家業が忙しく欠席がちで「せんべい博士」などと揶揄されたらしい。その人が後に立身出世をし愛知県知事や北海道庁長官などを歴任。関東大震災の際に、帝都復興院の副院長に抜擢された。院長は、言わずと知れた後藤新平。恐らく隣同士ということの縁から後藤新平に紹介されたのではないか。こんなことが、今、インターネットをちょっと調べれば、簡単にわかってしまう。すごい世の中になったものだ、とつくづく思う。


2011/5/6 金曜日 — 青柳 英介



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