パプア・ニューギニア


12月1日に独立するパプア・ニューギニアで最大の都市の素顔

この12月に、国連とオーストラリアの信託統治を脱して、自治政府が誕生するパプアーニューギニア。インドネシア領となっている西部の西イリアンを除く、島の東半分を占める同国の面積は、日本のおよそ1.4倍。そこに250万の人々が400の部族に分かれ、700の言語を話し、それぞれの存在を主張している。
何もしなくてもイモが育ち、ヤシやパパイヤが実る、石器時代さながらの自給自足の生活。人々は時間と無縁に寝起きし、自分の年齢さえ知らず老いていく。時たま女、土地、ブタが原因の争いが、平和な島の静けさを破るのみだ。極楽鳥や木登りカンガルーが群れ遊ぶ、人類に残された唯一の原始境といってよい。
だが、怒濤のように押し寄せる近代化の波は、ピカソをも魅了したこの原始美術の秘境の眠りをそっとしてはおかなかった。物々交換の社会に貨幣経済が入り込み、 1本もない鉄道の代わりに、トヨタ、ダットサンが氾濫し、日本製のラジオは人々の憧れの的になっている。
ポートモレスビーなど海岸地方は早く開け、白人により近代都市が築かれたが、人々の9割は”いなか”に住み、昔ながらの生活をしている。自主政府が誕生しても、国家予算の8割はオーストラリアの援助に頼らなければならない。
独立とは何か。国家とは何か。これから厳しい夏を迎えるこの国で、黒い肌の裸の人々は、険しい道に一歩を踏み出そうとしている。
腰ミノーつで歩く高地の娘たち
精霊信仰が残るセピック地方。「精霊の家」には、セピック原始美術の傑作である彫刻や仮面が展示され、また仮面を被って踊る人々の姿も見られる。
ことし7月1日、初めて開設された神原汽船の、横浜・ニューギニア間を結ぶ定期貨客船航路を利用し、その第一便でパプア・ニューギニアを訪れた。 7月9日、ニューブリテン烏のラバウルに入港、以後船と別れ、日木軍の最激戦地だったラエ、大湿地帯を貫流する全長1200キロの大河セピック、数十の小島を抱 えサンゴ礁の美を誇る海岸都市マダンの各地を経て、36年ほど前、はじめて飛行場がつくられた西部高地原始美術の中心地マウント・ハーゲン(標高5354フィート)や、 ビスマーク山系の渓谷にあるゴロカ(標高5100フィート)へ、飛行機で飛んだ。
秘境ニューギニアの中で。一段と原始境のムードが濃厚なのが、これら高地である。羽根飾り、イレズミ、絵具のボディーペインティング、その上弓矢と槍を持った男た ちは恐ろし気だが、カメラを向ければおとなしくポーズを取り、片手を出して10セント(約40円)を要求する。張り切った乳房を惜し気もなくさらけ出して、腰ミノー つで濶歩する娘たちもいる。中年以上の女では、片方の乳房がダランと伸び切っているのが目につくが、それは子豚が生まれるとわが乳を与えて育てる風習のためだ。
彼等は、一ヵ所に定住せず、友好グループ圏内を何日もかけて行き来し、数カ月間を交際相手の部落に滞在したりし、太古からの一種の浮浪生活を送っている。
これら強烈な秘境ムードが漂う高地をあとにして、いよいよ目指すポートモレズビーへ向かったのは、7月16日のことだった。
午前10時過ぎ、マウント・ハーゲン空港を発つ。パプア・ニューギェアを南北に分けるオーエンスタンリー山脈に沿い、国土の7割が熱帯性森林だという事実をうなず かせるように涯てしなく続く濃い緑のジャングルの上を飛んで2時間、サンゴ海が見え始めると、TAA航空の36人乘りフレンドシップ機は、間もなくポートモレスビー空港 に着陸した。とたんにムッと機内の温度が上がる。
さすがパプア・ニューギニア第一の国際空港だけあって、広大な敷地と長大な滑走路。国際線を飛ぶさまざまな大型長距離ジェット機が並んでいるのが、目新しく見える。 というのは、これまで離着陸してきたラバウルほか五ヵ所の空港では、今乗ってきたフレンドシップ機が、国内線殼大の旅客機だったからだ。ターミナルへ歩きながら、 汗が吹き出す。携帯寒暖計のアルコール柱は、30度の目盛りを越えてぐんぐん上っている。
昨夕、マウント・ハーゲンでは雹が降った。ホテルのバーに電気ストーブがはいり、ロビーの煖炉では赤々と太いマキが燃えていて、なんとも気持よかったことが信じられない。
自動車からカッパえびせんまで
ポートモレスビーは、パプア・ニューギニアの首都、行政府。通常、観光客や商社マンが第一歩を踏み入れる表玄関である。今は客もまばらで、高地とは模様の異なるイレズミを した現地人が夫婦者や近代的なモードの服を着こなした娘なども混って、数十人、白人といっしょに時闘待ちをしているばかりだが、オーストラリア各地や、香港、マニラ、ローマ、 ロンドンからの便が集中するときは、かなり混雑するそうだ。
パプアーニューギニア人の気質は義理人情に厚く、大家族主義で、とくに若い娘の恥ずかしがり屋ぷりなどは、日本人そっくりだといわれる。偶然、チラリと視線かがち合った時など、 若い娘が見せる反応にそれがうかがわれるが、日本ではこんな純な気質は、とうの昔になくなってしまった。
荷役に立ち働く現地人労務者の間をぬって空港の外に出ると、エイビス・レンタカーの営業所を見下ろすように、昂然とま新しい国旗掲揚塔が立ち、黒地に白の南十字星と赤地に黄の 極楽鳥をあしらった国旗が、風にはためいていた。
ニューギニアへ行くことが決まったとき、暑熱と悪疫のはびこる恐ろしい食人種の島というごく一般的なイメージから、治安は、サソリは、毒蛇は、と聞き回ったものだ。山地はとにかくポートモレスビーはまさにそれら一切の”期待”を裏切る近代都市だった。暑いことは暑い。だが帰国後調べるとヽこの夏は東京のほうが気温が高かった日がしばしばあった。
ポートモレスビーは、1873年にイギリス人船長ジョン・モレスビーが発見した港だという。100年後の今日、人口は56,000人(うち42,000人が土着パプア人)に達し、南太平洋ではオーストラリア、ニュージーランドを除く最大の都会に成長した。世界で二番目に大きい島、ニューギニアの東半分を占めるパプア・ニューギニアは、この12月に、国連とオーストラリアの信託統治を脱して、自治政府をここに置く。
空港を出たバスは、エラ・ビーチに沿ってホテルへ向かう。舗装道路は清潔である。トヨタのトラッグが、半裸の労働者を満載してすれ違う。日本車の進出にめざましいもので、これまでもニューギニア各地で見かけたトラック、バス、ランドクルーザー、乗用車などの大部分が、トヨタであり、ダットサンであった。ヤマハ、ホンダの二輪車、タムラの公衆赤電話、カッパえびせん、アカイのテープレコーダー、アサヒベンタックスなどがこの国にあふれている。
話は前後するが、この日の夕方、ホテルからタクシーを呼んだ時も、やってきたのはマツダ1800だった。メーターまで、東京で見慣れたノーベル印が使われていた。ポートモレスビーを走るタクシーは2社合計56台、そのほとんどが無線つきの日本車だという。
島に散る10万柱あまりの遺骨
シェルのガソリンースタンド、華僑の商店、現住民の露店などが車窓を過ぎる。仕宅はじゅうぶんな間隔を置いて、ゆったりとした敷地に建てられている。第二次大戦中は日本軍の戦略目標となり、この都市にゼロ戦が激しい重爆撃を加えたというが、整然と連なる町並みにはその跡かたもなく、家々はポインセチアの紅と、ヤシやバナナの緑の中に埋っている。ポートモレスビーは地上戦の戦塲にはならなかっただけに、戦跡としては豪軍側のボマナ戦没者墓地が、かつての痛みを伝えるのみである。日本軍は山の上から町の灯を望みながら、補給が跡絶え、無念の撤退をしたと戦記にあるが、こうしてはるばる海を渡り、道なきジャングルと天険の山地を空から垣間見てここまでくると、今更ながら大戦争だったのだという感慨が湧く。なにしろ鉄道は一本もなく、道路といえるほどの道路もないこの島に、未収容の遺骨10余万柱が散らばっているのだ。片言の日本語で話しかけてくる中年の男には、マダン、アンゴラム、その他各地で出会った。軍歌や童謡を歌ってくれた人もいる。知っている限りの単語を並べ立て、昔を懐かしむよう話を続けたがり、むき出しの好意を笑顔で表現した人も・・・。
やがて左手は海岸になる。白砂の浜に原色のワンピースを着だ女が、5、6人かがんで貝を集めている。近代的な町の景観とは対照的に、ゴチャゴチャと汚い木造掘立小屋の集団が見えてきた。俄然、興味が湧く。家々は海の中に杭を打ち込んで土台とし、長屋が軒に軒を連ねて伸びた感じで肩を寄せ合っている。原住民の休臭が匂うようだ。この水上部落がコキでありモツ語を話す部族が集って住んでいろところだ。隣接する浜辺は、町名なコキ・マーケットの常設の敷地である。
ここを過ぎると、再び目をさえぎるものはない。ヤシ並木の緑が陽に映える。沖に白波が立っているところがサンゴ礁だという。天然の防波堤を得て、静かな海のたたずまいである。
中層のしゃれたホテルに落ち着いた。ダバラ・モーテルといい、ポートモレスビーに9つあるヨーロッパースタイルのホテルの一つだ。赤い花模様の腰布だけを身につけたボーイが、 うやうやしくトランクを持って案内してくれる。部屋には、トランペットのバック・グラウンド・ミュージックが流れていた。中庭にプールがある。モーテルという呼称は、日本でこそ特殊な意味 を持つが、諸外国では全く似て非なるものである。この国ではレストランに外来客を入れる入れない程度の違いで、宿泊客にとっては、ホテルもモーテルも同じことだ。
原始美術の粋を集めた博物館
市内見学はまずコキ・マーケットから始めた(エラ・ビーチに沿って岬へ進めば、国連事務所や国会議事堂、日本商社が居を構える13階建のANGビルなどがある中心街へはいるが、それらは翌日駈け足で回った)。マーケットの入口には、ペンキが剥げかかった掲示板に、土民語三種が書かれていた。全土700以上といわれる言語の複雑さを物語るものである。
ポートモレスビーのコキ・マーケットには、赤、緑、銀色などの魚が豊富にある。日差しが強く、すぐ鮮度が落ちるため、常に新鮮に見せようと、時々水をかけながら売っている
中へ入って驚いた。まず魚屋の大行列である。なんと日本とスケールが違うことか。ひとかかえもあるサヨリに似た銀色の魚、巨大なエビ。二坪ほどの小屋組みをして魚を吊した店がズラリと彼方まで連なり、イキをよく見せるためか、店番が時々水をぶっかけている。だがその魚の回りに群がる人の顔、顔・・・・・・ゆっくりシャッター・チャンスを待たないと、人ばかり写って魚が写らない。白人はほとんどいない。男も女も少しでも安くいいものを手に入れようとショッピングに夢中なのだ。小屋掛けを借りる資力もないのか、あるいは獲物が少なかったのか、僅か十数匹の見慣れぬ姿の赤い魚、黒い魚を地べたに並べ、呼び声をあげるでもなく茫然と坐って、吹出物の足を投げ出している女もいる。
農産物も豊富だ。高地のマーケットでも見た主食のタロイモ、ヤムイモ、大きいバナナ、寸づまりのバナナ(これかうまい)、パパイヤ、パイナップルと果実もたくさん。
目で見ただけでは理解できないので、試食したものか二つある。一つは長さ1メートルぐらいの木の枝である。売り子はその木の枝を、小刀で削り取って口に入れている。真似してみると、口の中いっぱいに二ツ牛の香がひろがった。ニッキ紙の味だ。もう一つはピートルーナッツ(びんろう樹の実)である。青い実を割って中の核を口に含み、石灰の粉といっしょに噛むと、たちまち真紅に発色する。だが強烈にシブイばかり。こんなものか好まれる理由が分からない。どうやらこれはタバコと同様、”味を覚える”のに手間がかかりそうな代物だ。
ここで売られているものは、すべて自分がその日に収穫したイモ、捕った魚などである。貨幣は使うが、最も素朴な形の交易である。ポートモレスビーが近代都市の装いをするはるか昔から、こうした営みか続いているのだろう。
モレズビー街のパプア・ニューギニア博物館に行くと、ここにはトロブリアンド島の一木づくりの太鼓。ピカソにも深い影響を与えたという原始美術の世界的宝庫セピック河流域の木彫仮面、ラバウルの火踊りの衣裳、それに人間の頭骨に彩色を施し、髪を植え、目に宝貝をはめ込んだものなどが展示してある。

島の中央から東へ悠然と流れるセピック河はニューギニア屈指の大河。 流域の左右に展開する水上部落の風景にも、いかにも文明から離れた地域らしいのんびりした雰囲気がある。
精霊信仰の村々では、それらか今も生命力を持って、祭りや儀式、魔術に使われていると聞けば、この博物館は、一面、”現代館”の性格を持っているわけで、コキ・マーケッ卜に共通するおもしろさかある。
博物館に隣接して、国会議事堂(ハウス・オブ・アッセンブリー)が建っている。日本なら中クラスの国際会議場といったところ。ここで昨年9月、議会は「パプア・二ユーギニアの自治(防衛・外交権を除く)を1973年12月1目またはそれ以降のできるだけ旱い時期に達成する」ことか議決されたのだ。
部落の融和を阻む”ワントーク”
ポートモレスビーに行って、見落としてならないものに、パプア・ニューギニア大学がある。ポートモレスビーには、碧く澄んだ入江のヨット・ハーバー、完備したゴルフ場、近代設備がととのった高層ホテルかある。しかしそれらは、白人が自分たちのために作ったものであり、現地人には無縁の世界であった。
その中にあって、パプア・ニューギニア大学こそは、パプア人のための近代施設である。250万全人口のうち、学校へ行ったことのある者が、まだ10パーセントに満たないこの国としては、ラエ工業大学と共に、誇るべき教育機関なのである。
ダバラ・モーテルから約10キロ北方に、この大学があった。モダンな本館に、伝統の建築様式である寄せ棟ふうの屋根を取り入れた図書館を配して建っている。
創立は1965年、全寮制。昨年度の在籍者は、全日制850人、定時制350人で、うち現地人が約60パーセント。あとはオーストラリア、ニュージーランド、イギリス、東南アジアからの学生だという。
人材が足りないこの国では。彼等は将来の地位に不安のない”期待される人間像”である。色とりどりの服装の男女学生の、どの顔も明るく、くったくがない。日本人学生が一人いると聞いて、学生課や食堂を尋ね回ったが、短かい時間に探し出すことはできなかった。
ポートモレスビーの7月は、冬の乾期に当たる。12月から1月。2月は、気温、湿度ともに高くなる。だから7月は、もちろん休みではなく、むしろ逆に学生込の勉強に一段と脂が乗る時期なのであろう。ハダシの者も、サンダルばきの者も、思い思いに書物を小脇にかかえて歩き、走り掲示に見入り、あるいはのんびりとギターを弾いている。午後の講義が続いていろ教室は、熱心にノートを取る姿がガラスごしに見られた。
新生パプア・ニューギニアの将来を担う若者を養成するため、ポートモレスビーに立派な寄宿舎をもつ大学が置かれている。 だが異なる部族出身者の間では、しっくりといかない面もある
さまざまな部族出身者が、一つ教室の中で呉越同舟、机を並べている。その光景にハッと、これはたいへんなことだと思った。なぜかは、ちょっと説明しないと分っていただけないだろう。
ポートモレスビーに在住8年、TAA航空に勤務し現地の事情に詳しい日系人のホワイト・ゆき子さんは、こんなふうに話してくれた。
「700余の部族語がある社会で、ことばが通じ合うことは親族を意味します。これをワントークといい相互の義理堅い交際圈をつくっています。反対にことばが通じなければ、習慣や思考、信仰が異なる敵方として警戒するのです」
ワントークの義理が強固なだけに、他集団への反発は強く、以前先祖が殺されたこと、豚が盗まれたことなどが、後の世まで語り伝えられて敵愾心をあおる。
 ゆき子さんはさらに、「身内同志では献身的犠牲を払って、無期限の居候を置くことも平気なくらい、あたう限りの義理を果します。ところが一歩部族の外へ出ると、旅の恥はかき捨てみたいに、他人に迷惑をかけてもかまわない − そういう気質が、独立への障害になっています」という。
職場でも白人が上に立つうちはいい。だが現地人をボスにすると、とたんに混乱が起きてしまう。あんなヤツのいうことなんか、聞くものかというわけだ。だれとだれとがワントークか知っていないと、白人でも管理者としては勤まらない。伝言を頼んでも、相手が気に入らないとスッポかされてしまう。
独立後も暫くは白人が要職に
現地人がどんな職業についていたかを思い出してみると、この目で見た範囲では、ルームボーイ、ポーター、観光バスガイド(男性)、運転手、船頭、コック、バーテン、ウエーター、修道女、ペンキ屋、農作業員、漁師、店員、民芸彫刻、雑役夫など、いわば下積みである。
ほかにスチュワーデス、空港職員、飛行機整備士、パトロール徴税官、裁判所職員、部族語アナウンサー、小学教師にも会ったが、せいぜい中間管理職である。
これにひきかえ、企業の運営やマネジメントの能力を必要とするポジションは、たとえばアンゴラム・ホテルの支配人はシンガボール人、マウント・ハーゲン・ホテルの支配人はオランダ人夫婦、マダンの遊覧船経営者はオーストラリア人という具合に、海外からの移住人で占められていた。パイロットのような技術者も同じである。
能力、資本力といった条件のほかに、ワントークの問題が、指揮、命令系統における障害となっているのだ。
大学で部族の呉越同舟が、たいへん大きい意味を持つ、と感じたのはこんな背景からだ。ただものを教えるだけでなく、融和の喜びを体験させて、統一のための人材を養成する。ここにパブア・ニューギェア大学の”部族共学”の大きな存在理由があるはずである。
独立への気運は民族内部から盛り上がったというより、国連の勧告という外的要因からのスタートであった。
いわゆる新興民族主義国家では、白人支配にたいする反感が、独立への原動力となっているものだ。ニューギニアでも、過去にはラバウルの白人地方長官エマヌエル氏が、急進的なトライ族に殺害される事件が起きた。しかし今に至って、パプア・ニューギニアの知識階級は、白人がいなくなれば、すべての機能が停止することに気付いた。
たとえば、続々と本土へ引き揚げて行くオーストラリア人には、医者もいれば技術者もいる。彼等が行ってしまえば、飛行機は飛ばないし、仕人れる人がいないから店には物がなくなる。パプア・ニューギニアは、再びほんとうに太古原始へ逆戻りしてしまうことになる。
これまでは自分たちの土地を取り上げ、生活を侵すという白人の一面だけを見て、彼等を駆逐する独立を喜んでいたものが、やや異なる雰囲気になった。オーストラリアへの反感が揺らいで、できることならもう少しいてほしいというように変ってきたのである。しかし、現地人を要職につけるために、今8000人いる白人の政府関係職員を、4年以内に半数に減らす決定もすでになされている。そのための人材は早急に養成しなければならない。パプア・ニューギニア大学は、目前のこの要請にも応えて行かなければならない。
子供が死ぬたびに指を切る母親
独立への理解に、大きな断層があることは、地方へ行ってみるとよく分かる。
バイヤ・リバーに沿って、極楽鳥保護区に向かう途中では、道ばたでお互いの休に泥をなすり合っている中年の男三人を見た。ギョッとした。高地には近親者が死んだとき、服喪のために泥を塗る風習があることは聞いていたが、目のあたり見る光景は実に異様であった。さらに一人の男が泥を頭からかぶる。
人間がこういうことをしているのを見るのはやり切れなかった。似たような経験だが、マケフク部落にいた老婆は、わが子が死ぬたびに指を切るならわしだといって、両手を広げて見せてくれた。10本の指先がほとんどなくなっていた。
これほどの未開性を残す大部分のパプア・ニューギニア人にとって、独立とはどういう意味を持つのだろう。
ポートモレスビーに住んでいる現地人の中にも、自動車を人間が作ったものとは考えない人がいるという。パプア・ニューギ二ア大学の学生の中にさえ、精霊信仰を捨てていない者がいると聞いた。コキのほか、もう一つのポートモレスビーの水上部落、ハヌアバダ村のアガバでは、嫁を買うのに豚5匹と200ドルが必典たった。
夜陰にまぎれて、白人の自動車に、自分の名前をペンキで書きつける事件も起きたそうだ。そうしておけば。独立後は自分の所有物になるのだという理解の仕方である。
独立後の混乱を救うものの一つに、数百年前から奥地に入っているキリスト教宣教師の力があるだろう。ある探険隊が文明非接触部落を求めて「辛苦の末、ようやく未開の目的地へつくと、そこには教会の十字架が立っていた」と書いているように、草ぶき屋根の十字架は至る所に立っている。人口250万人のパプア・ニューギニアに、400余ヵ所もの飛行場(日本では60余ヵ所)があるのは、宣教師が築いた自家用機発着場が多いためだそうだ。  飛行機のことをビジン英語でパルスという。飛行機に限らず、飛ぶものは鳥やトンボもパルスなのだが、白人に物資を運んでくるパルスが、やがて自分たちのところへもやってくるという 信仰が生まれたこともあり、その日のために飛行場を作っておこうと、村人たちはせっせと作業にはげんだという。貨物船についても同様の信仰が、海岸地方にあった。
700種以上もある複雑な部族語が、政治、経済の正しい意志の伝達を妨げている。文盲率80パーセント、新聞は発行されても浸透度は低い。新闘のことを、共通語のピジン英語で.niuspelaというが、別にsmokpelaといういい方もあることから察せられるように、見地では新聞がタバコの巻紙として珍重されている。
二十四カ国語によるラジオ放送
日木製短波ラジオは、ステータス・シンボルとして人気があるが、この人気はパプア・ニューギニアのマスコミにいささか寄与しているだろうと思われる。中央から地方への意志伝達手段として、この国のラジオ放送局は、新問よりはるかに優位に立っているからである。
ラジオ・ゴロカのステーション・マネジャー、デニス・シモンズ氏は「12ヵ所の短波放送局が、英語、ピジン英謡、モツ語、オロコロ謡など古典24部族語で、午前6時間。夜2時間の放送を行ない、全土をカバーしている」と諳った。ラジオ・ゴロカ放送局には粗末なアナウンサー・ブースがたった一つあるきりだが、タイプライターが十数台もあった。ニュース原稿はオーストラリア職員が選んでタイプに打ち、部族語のできる現地人が翻訳してまたタイプに打ち、放送するのである。
パプアニューギニアは、いわば地球に残された唯一の秘境といえる。サンゴ礁、極楽鳥、木登りカンガルー、そして決して怖くはない人のいい原性民の営む原始生活、色彩あふれるシングシング・ダンス、セピック河流域の村ごとに立つハウス・タンバラン(精霊の家) − 無数の観光資源がいっぱいある。各地への航空便も便利だし、西欧人を満足させる設備のホテルがある。ところがこの国は、いっこう、観光に熱心ではない。
その理由の一つは、近代文明との落差である。観光客は輸人禁止のトランプを持ち込んで、現地人の生活を狂わせ、キャンデーを与えて虫歯をふやす。写真をとっては10セント貨を投げてやる。酒のなかった国に酒がはいって、泥酔者が出、ケンカがふえる。純情素朴な彼らには、文明諸悪への抵抗力がない。
もう一つの理由は経済の極端な二重構造である。いくら観光客がやってきて金を落としても。白人経営のホテルや航空会社が利益をさらってしまって、現地人の手に落ちるのは僅かなチップぐらいのものである。国家としての観光収入源になっていないのだ。
「この数年間、経済は急激な成長を示した。しかしこの成長の大部分は”幻覚”にすぎない。われわれの大部分にとって、とくに部落住民にとって、何事も起きなかったのと同様である。パプア・ニューギニアは二重経済で開発されている。ポートモレスビーやラエのような大都市もあり、ブーゲンビル・コッパー・アンドースヂームシップのような大会社もある。しかも人々の大部分は、彼等が今までやってきた方法で今なお生活している。自分の食物を自分でつくり、自分の家を自分でつくる。貨幣経済の利益をほとんど受けていない」。ことしはじめ、首席大臣マイケル・ソマレ氏はこんなふうに演説した。
ニューギニア最大の祭りといわれるシングシングは、マウントハーゲンとゴロカで毎年交互に催される。 各地から多様な部族の民が参集し、”民族協調”のショーが繰り広げられる。
工業国よりも農業国を目指す
7月17日、パプア・ニューギニアを去る前に、ポートモレスビー空港貴賓室で、そのマイケル・ソマレ氏に会うことができた。工業国よりも農業国を目指すという大臣は。次のように述べた。
「自立へは日常的に移行する。特にお祝いはやらない。理由は憲法起草委員会の仕事が終るのが来年5月なので、それまで待つということだ。独立となれば。過激反対派も出るだろうし、秩序維持は難しい。しかし部族間の民族統一意識も、自立から独立へと進む間に、自らの内部から出てこようし、心配される懸念(暴動)はないと信ずる。若い世代、とくに大学教育を受けた人々の間における独立への目覚めは、著しいものがある。彼等なくして、次の時代のパブア・ニューギニアはあり得ない」。
ところでこれまでパプア・ニューギニアの財政を支えてきたものは、オーストラリアの経済援助である。その額は年々ふえて、72年度には国家予算の約80パーセントを占める1億7,000万豪ドルに達している。
農、林、漁業を通じて、現地人による商業生産は、ようやくその緒についたばかり、貿易は大幅な入超である。ただ一つ、近い将来国家財政を黒字に転換する有望な計画は、露天掘りで有名な、ブーゲンビル銅山開発計画であろう。ここからの収益を見込んで、耕地拡大、農業牧畜の振興、工業と林業生産の倍増、輸出漁業の開発、輸出の4倍増などを軸とする5ヵ年計画が進んでいる。
「近代社会というものが、力あり富裕なもののみに利益するものなら、われわれは近代化社会の建設を欲しない」
「大部分の地方に無医村が存する限り、他の一部地域に費用のかかる近代的病院をつくることは、そこに住む一部のものの権利ではない」
というような首席大臣M・ソマレ氏の思想の下で、ポートモレスビーはこの12月、パプア・ニューギニア人にとって”幻覚”の近代都市から、自分かちのためのほんとうの首都に生まれ変るべく、多難な歩みの第一歩を踏み出そうとしているのである。
原紙の生活が今も続いているマウントハーゲン地方の少女の盛装した姿。 近代文明社会への道は、まだまだ遥かに遠いことを痛切に感じさせられる
日本交通公社 月刊「旅」1973年12月号収載

世界の旅へ