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日中放送人懇話会 リレーエッセイ/2013年
「往時茫々・私事片々」
青柳 森



書かんとす紙白ければ秋思あり 森々

2013年が暮れなんとしている。私はふと、これまで日中放送人懇話会を通じて日中友好に貢献された人々のあれこれを思い出す。忘れ得ないのは宮本隆司元会長、篠原栄太元会長、陳真さん、井田麟太郎氏、河合覚氏、ほかの会員である。宮本氏の中国人よりも流麗な中国語と、陳真さんの日本人より完璧な日本語とを忘れることが出来ない。世に稀なバイリンガル二人の美声を記憶していられる会員は、いま何人いらっしゃるだろうか?

アラ80でもなくアラ90でもない、そのちょうど真ん中に立っている私は、もはや加齢のために文章を書いてもなかなかまとまらず、長いものが書けなくなった。十七字の雑俳ぐらいがちょうどいい。森々は私の俳号である。前掲の駄句は先日、朝日俳壇に投稿し掲載されたものである。一句をああでもないこうでもないと数日かけてひねくり回して、閑日をもて遊んでいる。日野原重明さんのように102歳を超えて元気に毎週新聞コラムを書き、どんどん海外に出掛ける方もいれば、今年81歳にして”老衰死”してしまった俳優の長門勇氏、元ニッポン放送の高崎一郎氏らがいる。私はそのどちらでもなく、病を得ながらも日本人男子の平均寿命をうかうかと超えてしまった。

原宿の南国酒家で日中放送人懇話会の新年会が催されたのは、何年前のことだったろうか? 雪の降る中を出席された陳真さんに、私は中国の白馬寺で見かけた詩文の意味をお尋ねした。記録を調べると1998年1月8日のことである。瞬く間にそのときから15年が過ぎた。

私は前年の秋、鄭州、宋代の古都・開封、少林寺、龍門石窟、西安を訪れ、洛陽へ行く前に白馬寺を訪れた。西暦0068年に建立されたという中国最古の仏教寺院・白馬寺は、あまりに古いので由来も流派もハッキリしない。わずかに遅れて西暦0080年、ローマでは円形劇場コロッセウムが建設されることになる。寺の入り口で綺麗な半透明の玉数珠を買って参詣した。すると笑顔の仏様の傍らに


  肚中能容容世間難容之事
  慈顔便笑笑天下可笑之人

という二行の詩文があり、私は意味が取れなくて往生し、手帳に詩文をメモした。

陳真さんは、この文は肚中能容で一旦切り容世間難容之事と読むと、「肚が大きければ世間で受け入れがたいことも受け入れる」となり、同じく慈顔便笑で切り笑天下可笑之人と続ければ、「慈顔は天下の笑うべき人を笑う」となるのだと説明して下さった。白馬寺を含むこのときの旅では、70歳の私はまだ足腰も元気に動き回ることが出来た。

陳真さんの波乱の生涯については「陳真 戦争と平和の旅路」(野田正彰著、岩波書店、2004年)が貴重である。この本は陳真さんの病気の進行と競うようにして書かれ、出版され、病床に届けられた。この本を読むと陳真さんの台湾潜行時代に、台湾の作家で俳人の黄霊芝さんとの接点があったことが分かる。余談だが私は黄霊芝さんとはかつて文通があり、著書を数冊頂戴している。

さて今年の夏は暑かった。ベランダの植木鉢にヤマノイモのかけら(トロロをすりおろして残った欠片)を放り込んでおいたら、ぐんぐん芽が伸びて非常階段にからみつき、蔓に零余子(ぬかご)がたくさん付いた。おかげで秋に零余子飯を三度も炊くことが出来た。野趣があって旨い。俳号を零余子という俳人がいたのを思い出してウェブで調べた。

1886年5月23日に生まれた長谷川零余子は41歳で世を去った。1928年7月27日のことである。なんと私はその日に生まれて、今年85歳に達した。

零余子夫人、かな女は虚子「ほととぎす」門下。日本女流俳人の草分けとも言われる。この俳人夫婦の孫に三田完という作家がいる。三田というペンネームは多分、慶応大学出身のせいだろう。本名は長谷川敦である。「俳風三麗花」という句会小説を書き2007年第137回直木賞の候補になった。

私の父青柳菁々も俳人で17歳のとき「北国新聞」の新春雑詠に応募した「さすらひの子が拾ひたる歌留多かな」で第一席を得て以来、俳句を生涯の友とし「石楠」の臼田亜浪氏を師と仰いだ。父に連れられ幼時何度も訪問した中野区西町の石楠書屋の庭に、亭々とそびえる白木蓮を私はまざまざと想い出す。父は新潮社の編集者だった。同僚の斉藤十一氏のお宅にお邪魔して私は苦手だった幾何を教えてもらった記憶がある。また父と田河水泡邸を訪れたとき、用談が済むまで私は内弟子の長谷川町子さんの部屋で過ごした。退屈しのぎに町子さんは大きな画用紙いっぱいに漫画を描いてくれた。暫くは大切にしていたが何度かの引っ越しで紛失してしまった。

零余子の歿年が私の生年だが、生年が同じ男に海外で出くわしたことがある。

シンガポールのラッフルズホテル。客待ちして門前にたむろするトライショーの車夫の一人が気のいい男で、何度か乗るうち互いの年齢の話になった。彼はIDカードを見せて間違いなく1928年7月27日の生まれであると証明した。彼を相手に私は中国語のトレーニングをしたが、彼の中国語たるや訛りが強くヒドイものだった。

今のラッフルズホテルは様変わりしてしまった。改築前は木造3階建てで海峡植民地の面影が色濃く残っていた。3階までの電気リフトもドアの開け閉めが手動式のセルフサービスだった。食堂ティフィンルームの高い天井には木製の扇風機が物憂げに回り、焼き上がったクロワッサンの匂いが立ちこめ、食器が触れあう音が大理石の床にこだました。サマセットモーム様お泊まりの部屋の近くに陣取ったこともあり、七十七歳の母や息子夫婦を連れて行ったときは三ベッドルームのファミリータイプに泊まった。

「俳風三麗花」を書いた三田完氏の職業はNHKのディレクター、プロデューサーであった。つまり放送人である。直木賞候補になった三年後、アナウンサー中西龍の波乱に満ちた人生を描く力作「当マイクロフォン」が書き下ろし単行本として角川書店から発売された。当マイクロフォンとは中西アナウンサーが自分を表す一人称である。中西アナの放送は日本語という山脈の一つの頂点を極めたアナウンスであったと私は思う。巻末に「本書は、著者の取材に基づいて、実在の人物をモデルに書かれた書き下ろしフィクションです。」と断り書きがあるが、すさまじいまでの人生行路は中西アナの実像と思え、巻を置く能わず私は徹夜で読了した。

「茫々哀憐」は中西龍が愛した四文字であるという。


臘月に昔の唱歌のみ想ふ 龍