前のページへ

日中放送人懇話会 リレーエッセー/2010年
「僕もがんを手術した」
青柳 森


「これはがんです。手術が必要です」と、医者は内視鏡の画像を示して言った。急な話である。受け入れられるものではない。何かの間違いではないだろうか?

「あなたはがんです」再び医者の声が響き、私の周りの世界は色褪せ、暗いモノクロームに変わってしまった。ところは聖路加国際病院泌尿器科。夏のことだった。

自分ががんに罹ったことを頭では認めても肉体に苦痛や症状があるわけではない。

立花隆さんに「僕はがんを手術した」というレポートがある。同時進行ドキュメントの副題を付け月刊「文藝春秋」2008年4月号から4ヶ月連載された。

本になっていないので、これら初出雑誌を図書館のウェブサイトで検索し、ネットで貸出を予約した。2日後、最寄りの図書館に雑誌4冊が届いた。拡大コピーをして読みふけった。何故この記事が読みたかったのか? 立花さんが僕と同じがんを病んでいたからである。膀胱癌とはどんながんか、手術はどんな風に進行したか、立花さんのドキュメントが詳しい。

物事を苦にしない女房と、物事を苦にする亭主とが、口喧嘩しながら面白おかしく大都会の片隅で50余年暮らして来た。

若い頃から好奇心が強かった私は、ことに異国の風物に心を惹かれて、世界51ヵ国を、ときにじっくり、ときに駆け足で歩いた。出来る限り女房と一緒に出掛けた。旅の記事をたくさん書いた。書くのが楽しかった。

82歳の誕生日を穏やかに迎えた7月末青天の霹靂が轟いた。がんが見つかり、 あれよあれよという間に手術が決まった。生来そそっかしい上に、今年の猛暑で思考が停滞し、ゆっくり考えることが出来なかった。

わが身にとっての一大事は、お他人様には対岸の火事。「そうですか。がんは最近多くなりましたね。人間が長生きになったからでしょうか。日本人の2人に1人が罹って、日本人の3人に1人が死ぬそうです。どうぞお大事になさって下さいましな」

畏友井田麟太郎君は肺がんから一時回復した。例会にも出て来て、摘出したがんの大きさを「ピンポン玉ぐらいあったんだよ」と、元気な声で仕方話をした。

1987年5月、私は日中医学会から派遣され中国・長春の白求恩医科大学に日本語講師として赴任した。新京育ちの井田君は一人の幼友達を紹介してくれた。袁柏雄氏と言い、日本語に不自由ない。

袁さんは車で私が行きたいところに連れて行ってくれ、しばしば夕食に招いてくれた。1年間さまざまな面倒をかけた。イスラム教会に行ってみたい、市の消防やラジオ局の話を聞きたい、などと言うと直ぐ、渡りを付けてくれた。袁さんのサポートがなかったら、何一つ巷のことを知り得なかったろう。懐かしく袁さんを思い出すとき井田君の顔が寄り添うように浮かぶ。

日中医学協会の笹川医学奨学金日語培訓中心では、日本留学を間近に控えたお医者さんに、3ヶ月で日本語の読み書きの基礎を教えた。50人を教師4人で担当した。前期と後期あわせて毎年100人の中国人医師を日本に留学させることになる奨学金制度は40億円の費用を投じて20年以上続き、現在の理事長は安達勇氏である。

先日の懇話会で「中医学と高齢者の健康」について講演した何仲濤氏も、奨学金制度の早い時期の卒業生である。

蛇足を付け加えるなら、白求恩医科大学に特設された第1回日語培訓の私のクラスに西安第四軍医大学の呉軍正教授がいた。がん手術200例の経験を持つ口腔外科医であった。来日後は築地の国立がんセンターで研修した。彼はいま西安にいる。私の検査データを送ればセカンドオピニオンを聞くことが出来るだろう。

さて私は9月10日の手術以来、3つのことを禁止された。酒とスポーツ、そしてバイアスピリンなどの血小板剤である。

3年前のこと、順天堂大学の天野篤教授の執刀で心臓冠状動脈5枝のバイパス手術を受け、今日の余命をいただいた。心臓手術以前に、私はシロリムス薬剤溶出型ステントを2本入れていて、バイアスピリンとパナルジンを飲んでいた。血液の流動性を高め血栓を防ぐためだ。

手術前後、薬の服用を中止するよう指示が出た。メリット、デメリットと医者はよく言う。中止による心臓トラブルの若干の増加は無視しなければならない。

これら3つの禁止は手術後60日を経て11月11日に解禁される予定である。

毎日ノンアルコール・ビールばかり飲んでいるから11日には精進明けにベルギービールを飲もう、シメイ・トラピストビールの青瓶(アルコール9度)をじゃんじゃん空けて大いに酔っ払おうと決めている。

ウェブサイトには玉石混淆の情報が溢れている。病気、医療機関、治療法・・・エトセトラ。情報は居ながらにして手に入る。

真贋は自ら判断しなければならない。あっという間にA4用紙一束500枚と、プリンタインクがなくなった。見よう見まねで私はパソコンを動かす。今の世で曲がりなりにもパソコンが使えると使えないとでは維新前夜の文盲と非文盲より大きい差がつく。重粒子線の治療に300万円の自己負担が掛かること、私のがんには適しないことなどはウェブサイトが教えてくれた。

洋泉社新書の「死の準備」は10人の筆者が自分の死を語って興味深い。吉本隆明氏は「医者からあと一年の命と宣告されても信じねえ」と力強い。放射線医の近藤誠氏は「自分が医者でなくたって、治療法は自分で考えて決めるつもり」。何故なら癌で死ぬのは自然だけれど、治療で死ぬのは不条理だから。

この本と並んで私の書棚に、山田風太郎氏の「人間臨終図鑑」徳間文庫全3巻がある。10代で死んだ人々(八百屋お七、山口二矢ら)に始まり年代別に有名人を並べており、自分の年齢でどういう人が死んでいるか一覧することもできる。

もう1冊「往生際の達人」(桑原稲敏著、新潮社)は芸能評論家が、芸人、孤独、死亡記事、自殺、変死、葬式、に分けて往生際の驚嘆すべきエピソードを綴っている。これらは年来の愛読書である。

膀胱癌の治療より映画出演を優先して死んだ俳優、松田優作を描いた「越境者 松田優作」(松田美智子著、新潮社)や「がんは切ればなおるのか」(近藤誠著、新潮社)など図書館で借りた本は枚挙に遑がない。

「がんペプチドワクチン療法」(中村祐輔編、中山書店)は親切な友人が読めと郵便で送りつけてきた。

がんは病気か老化現象か? もしかすると細胞にアポトーシスがあるように、人類社会の不具合を反射するアポトーシスではなかろうか、などと妄想が湧く。人間が皆100歳以上生きるようになったら地球はどうなるだろう、その方が余程恐ろしい。

一日、息子たち夫婦とともに父の墓参をした。生御霊(いきみたま・生身魂とも)という季語がある。歳時記には、「盆は故人の霊を供養するばかりでなく生きている目上のものに対しても礼を尽くす日であった。両親の揃っているものは刺鯖や飛魚などのなまぐさを両親に贈ったり、自身で食べたりする」とある。

墓参の帰り、夜景が美しい東京オペラシティ53階で、生御霊夫婦が自ら主催して息子らと会食した。銀河の星の一つに私たちは太古の遺伝子を受け継いで生まれた。この星の外に生命体は見つかっていない。奇跡である。(2010年11月7日)

青柳さんが癌を病んでおられたとは露知らず、過日、「リレーエッセーの執筆をお願いしまーす」と能天気な声をかけた編集子。「イヤーよわったな、実はボクはがんに罹っていてね」明るい声が返ってきました。

つられて思わず「えっ、冗談でしょ!」と言ってしまったほど、その声には恬淡として枯れた響きがありました。
闘病の最中に、面倒な執筆はさぞかしホネだろうなとは思いつつも、いまのこの方でしか書けないものを是非読んでみたい、この人生の達人ならばきっと引き受けてくださるだろうと、必死にくいさがったところ「何が書けるかわからないけれど、では、やってみましょう」と執筆をOKしてくれました。それが今号のこの作品です。
青柳さんは、旅行家として世界をめぐり多くの見聞録を発表されてきた、卓越したエッセイストですが、その一端をこの作品でも見せてくれました。
読者の皆さんには、作者の豊富な知識、インテリジェンス、作品の構成力、歯切れのよいリズミカルな文章の心地よさを存分に味わっていただけたらと思います。
青柳さんには、闘病中のところ、厄介な注文をお引き受けくださり、本当に有難うございました。心からお礼を申し上げるとともに、会員ともども一日も早いご回復をお祈りしています。      編集子